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「こ…んにちは」 土曜夜。店の閉店後に優に伴われてやってきたのは、最寄り駅から徒歩5分の8階建てマンションの5階角部屋であった。玄関先に立った依頼人こと灰枝未来(はいえだ みらい)は、緊張で少しだけ頬を固め、「どうぞ」とややぎこちない笑顔で兄弟を部屋に促した。すると来客に興奮した犬の「ルイ」が、尻尾をバタバタと振って優に飛び跳ねながらつきまとってきたので、優はその牧羊犬のようなやわらかな毛やシャープな顔をくしゃくしゃと撫でてやった。毛色は白地で背中と顔は灰色だが、彼を譲った中介人にも何のミックスかはよくわかっていないそうだ。 「灰枝くん…いや、灰枝さん、今日はよろしくお願いします」 「あはは、やめてよ、ふつうに呼んで」 リビングに通され、ひとりぐらしには少し長すぎるソファーに座らされる。 「そうだ、こないだもらった紅茶があったはず」 「あ、お構いなく!本当に平気!飲み物持ってるから」 「はは、そんな気使わないでよ。待って、用意するから」 「君ちょっと桜木ハルナに似てるな。アイドルの」 「へ?」 「よけいなこと言うな!ていうか敬語使え!」 「ああ…それたまに言われます」 「女顔だ」 「もう…」 顔をしかめる優とは相反し、灰枝未来はまだ少し緊張しつつも、先よりは穏やかにニコニコと笑っていた。 ー「ところで失礼だけど、優さんと時生さんって、背が高いとこ以外全然似てないんだね」 「でしょ。顔も性格も何もかも全然違うんだ」 「優さんお兄さんのことボロクソに言ってたから、どんなやばい人連れてくるのかと思ったけど…。全然その…ふつうだね」 「み、見た目はまあ…。今日はちゃんと外出できる服着せてるし。でもあの、申し込んどいてアレだけど、性格というか中身は本当に世間と適合できてなくて…おまけに中卒だし」 「あ、そうなの」 「だが俺は誰よりも弟想いの兄だ。その点は人よりすぐれていると自負している」 「はた迷惑なだけだよ」 「でもいい人そうだよね。…時生さんって、彼女とかいます?」 「小5まではいた」 「へえ、早熟」 (小学生時代もカウントするのか…しかもそれ童貞って暴露したようなもんだぞ) 「あの…灰枝くん。率直に言っていいから。この人に関しては第一印象で決めた方がいい。フィーリングというか。…兄さんのこと、どう?」 「第一印象だけじゃわからないけど、でも素敵なお兄さんだと思う」 「素敵…?あの、君の家でこの人が料理をしたり、犬を預かることについて、抵抗とかない?」 「はは、もし抵抗あったとしても、さすがに面と向かって率直にいうのは無理だよ」 「そうだけど…」 「時生さん、別に難しいことなんか何もないですから、しばらくうちで働いてもらってもいいですか?」 「え…」 「気は進まんが楽に金を稼げるならまあいいぜ」 「灰枝くんほんと?いいの?いまの上からなセリフめちゃくちゃイラッとしなかった?」 「平気。第一印象を信じる」 (ええ…今の一連の流れでもう信じるって謎すぎるだろ、何をもってよかったと思えたの…?) 「優くんがなあ、お前さんが何をもって俺の良さを見出したのか疑問のようだ」 「う、うん…(心を読んでる…)」 「ええ…何をもってと言われても…まあ強いて言えば、世間とか俺のやってることにすごく無関心そうなところかな。あと自分にも関心なさそう」 「大当たりだ」 「無関心…だとは思う、確かに」 「いまけっこう有名なストリーマーの動画も何件か抱えてるから、あんまりそういうのに敏感な人とか…あと承認欲求強い人はちょっと難しいんだよね」 「なるほど…」 「すとりーまーってあの水蒸気が出るやつか?」 「それはスチーマー」 「時生さんはSNSとかは…」 「やっていない」 「この人携帯もパソコンも持ってないよ。昔の友達とか直で家に来るんだから」 「おお…上出来」 「それで灰枝くん、さっそくで悪いけど、お給料は」 「ああごめんごめん、その話しないとね。前も軽く話してはあったけど…」 「違うんだ。あのさ、さすがに週イチの家事代行に平日の犬の散歩で、ふつうの一般的なフルタイムの給料はもらいすぎだよ。計算したら手取りで10何万って、やっぱりおかしいと思う」 「おかしくないよ。だって俺にはそれくらいの価値があるから」 「よくわからんがこいつはスチーマーで儲けてるんだろ?なら人助けと思って俺に少しばかり弾んでくれてもバチは当たるまい」 「どの口が言ってんだお前」 「はは…でもそのとおり、人助けにもなるだろ。時生さん職歴ないんだし、おまけに中卒じゃあ、今後ふつうに勤めようとしたって工場ですらそう簡単にいかないよ。このままじゃずっと自立もできない」 「急に突きつけてくるな」 「真理だろ。…本当にごめん、こんなの僕たち家族が助けてやることなんだけど…」 「優さんたちが悪いとか思わないで。時生さんは人よりチャンスが少なかったってだけだよ。俺はいま運良く金だけは稼げてるから、恵まれてるうちに人助け」 「ありがとう灰枝くん…。兄さんありがとうは?」 「ありがとう」 「どういたしまして」 斯くして週明けからさっそく彼の家へ通うことが決まり、月曜に掃除洗濯、食事の作り置きやその他雑用をまとめて行い、土曜までは日中に犬の散歩をすることとなった。優は灰枝未来と同じ地域に住み、なおかつ小川喫茶で彼と巡り合えた幸運に心から感謝した。 「じゃあ、月曜からよろしくお願いします」 弟に無理やり頭を下げさせられる時生に、未来は尚も少し緊張した面持ちで笑った。そして玄関をそっと閉めて鍵をかけると、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。 (な・・・何この偶然・・・あの人、優くんのお兄さんだったんだ・・・ヒイラギトキオさんかあ・・・) ルイがスンスンと主人の匂いを嗅ぎ、不思議そうに周囲をウロウロとする。 (や・・・やっぱり・・・) ルイをぎゅっと抱きしめ、「時生さんかっこいい・・・」と心からの言葉を漏らすと、その惚けた顔をベロベロと舐め回された。
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