139人が本棚に入れています
本棚に追加
未来が時生をはじめて目にしたのは、彼の住む床屋が並ぶ商店街の、小さなスーパーの精肉コーナーだった。彼がカゴを片手にじっと肉を吟味していたところに出くわし、とたんにその横顔から目が離せなくなって、後を尾けはしないまでも彼が出口からどちらの方角に歩き去っていくのかまでは見届けた。そしてその後何回か同じ時間帯にあのスーパーへ通ったりもした。まさに一目惚れである。
(1ヶ月くらい着続けてそうなくたびれた部屋着姿、床屋で切ってるみたいな垢抜けない短髪(実際床屋の人だったけど)、決してイケメンじゃないのに絶妙なラインで不細工には見えない造形、ちょっと擦れた目、なによりもあんなにデカいのに人間としての器が超ちっちゃそうなオーラ…そして実際そのとおりっぽい感じ…。おまけに彼女がいたのが小学生まででしょ?たぶん彼女っていうか仲のいい女友達だったんだろうけど、間違いなく童貞なんだろうな…。ヤリチンでもいいけどあの人に限っては童貞でよかった。ああ、ホントに完璧。どれをとっても完璧…)
未来は同じ指向の友人らとも恋愛の話がいまいち合わず、好みも誰にも理解されないため自分から話題を振ることは皆無であった。だからこの一目惚れも、今のところは世界中の誰も知らない秘密の恋である。
(あの不適合感丸出しの見た目どおりの中身なんて本当に最高。実はちゃんとしてる良い人だった〜とかじゃなくてよかった…本当によかった。優さんのお兄さんなら絶対ものすごく優しくてまともな人かと思ったけど、見事に優さんと正反対みたいな人だし。しかも料理作れるとかけっこうなギャップじゃん!ニートのくせに料理当番?世のニートがいちばんやらなそうなことをあのニートが?それもこれからは俺のために…まあお金払ってるけど、ともかく俺のために…嬉しい…めっちゃ不味くてもちゃんと食べよう)
土日早朝の習慣にしているジムでのランニングも、今日は一段と足取りが軽い。仕事が立て込んでいなければずっと走っていたい気分だ。フリーの在宅ワークではあるが、時には客との打ち合わせに出向くこともあるし、編集作業のかたわら自身のチャンネル更新も金稼ぎの一環として行なっている。内容は仕事に即したもので、あらゆる編集ソフトの使い方を初級から上級まで解説するという地味なものだが、英語字幕をつけているおかげかリスナーの数は早いうちに安定し、報酬もサラリーマンの2、3ヶ月分をひと月で得られるようになり、どうにか軌道に乗っていると言えた。
とは言え編集作業も簡易化し自動化が進む昨今、どちらの仕事もあと数年で下火になる可能性もあり、それまでに今のスキルで数千万は蓄えておきたいので気は抜けない。老後のために若さを削っているようでもあるが、「未来の心配」はだいたいは金で解決するのだから致し方ない。親は新たな時代への希望を託して未来と名付けたが、心配性の自分には未来がいつも先行き不透明で仄暗いものだった。
ー「よかったなあ。本当によかったなあ」
同じころ、昨夜の「合否」を聞いた祖父は字のごとく胸を撫で下ろし、「よし、じゃあさっそく食料の買い出しに行こう」と勇んだ。優は仕事があり、時生は運転免許がないので、車を出せるのは高齢の祖父しかいない。
「行こう行こう。もう7日分の献立は決まっている。ヤツの希望も交えた上でな」
「栄養士でもないのにすごいね、さすが兄さん」
「時生は宝の持ち腐れみたいな才能がいくつもあるからなあ」
「よせや〜いホメても何も出ねえぞじいさ〜ん」
あっはっは、と3人でひととおり笑ったあと、優が「本当にそれをとっとと活かしてくれてたらねえ」と低い声でボソリとつぶやいた。祖父は黙り、時生は思わず飯を噛まずに飲み込んでむせた。
「それより灰枝さんはすごい人だなあ。まだ若いのに、自営で人ひとり雇い入れるほど稼いでるなんて」
「そうだけど、うちだって雇おうと思えば雇えるよ。まだじいちゃんがピンチヒッターでやれるから募集しないだけだ」
「優くん、強がってる顔も男前だなあ」
「でも灰枝くんは確かに凄腕のプロフェッショナルだよね。こないだ仕事と動画のことを詳しく教えてくれたけど…依頼の相場とか広告収入とかもろもろを計算するに、僕の予想だとたぶん年で…これくらいは行ってる」
「ええ…そんなに?」
「たぶんだよ」
「の割には大したマンションに住んでないぞ」
「あの若さで駅チカの分譲に住んでたらジューブン立派だよ。立派すぎる。兄さんなんか月3万のボロアパートすら借りれないだろ」
「今朝はいちだんと当たりが強いな、優くん」
「ねえ、お願いだから灰枝くんに絶対に迷惑かけないでくれよ。与えられたことをロボットのようにこなせばいいだけだから、余計なことしたりサボったりするなよ、いいね?」
兄のはじめてのアルバイトに、勧めた本人がいちばんの不安を抱えている。仕事が出来たとしてもこの性格のせいでクビにされる可能性もあり、悩みは尽きない。
「昔は時生の方がちゃんとお兄ちゃんらしかったのに、すっかり逆転したな」
「むしろ親の気分だよ」
「何を言うんだ。俺の中の優くんはいまだに、公園で仲間外れにされてピーピー泣いてた頃のまんまで止まってる。ずーっと俺のあとをくっついて回ってたな」
「あのカッコいい兄さんのまま順当に成長してくれたらどんなに良かったか。小学生までだよ、尊敬できてたのは」
「優くんも灰枝もえぐるようなことをさらりと言うな」
朝食を終え優が開店準備に取りかかると、時生は祖父の運転で中心地にある大型スーパーに赴いた。日曜とあり早くも車の行列ができていたが、近くの商店とは違い作り置きのためのまとめ買いに適しているので、クビになるまでは毎週日曜にここを訪れるのが習慣になるだろう。
「どんな献立にするんだ?」
「基本的には療養食だな。脂質糖質カロリー控えめ、塩分も控えめ、野菜多め、予算は特に気にしないでいいとのことだ。優くんのスマホで病院食のメニューを調べるだけで済んだから、楽なもんだ」
「灰枝さんは糖尿か何かかい」
「さあ。見た目はヒョロくて頼りない兄ちゃんだったぞ。女みたいな顔しててな」
ついでに自宅の食材もまとめ買いをしようということで、祖父とふたりでカートをひとつずつ押し、昼前からごった返す店内を練り歩いた。そして食材を選びながら、時生が唐突に尋ねた。
「なあじいちゃん、優が本当に結婚しないままだったらどうする」
「どうするったって…仕方ないだろ」
「客にときどき見合いを勧められるから困ってるそうだぞ。おまけに押田さんと横井さんとこの親戚の娘たちは、フツーに優くんとの縁談に乗り気のようだ。どこで顔を見たのか知らんが、背の高いイケメンだからとな」
「押田さんの奥さんに聞いたよ。まあ優は学ランの頃からこの辺で目立ってたからなあ。今だってそうだ。地味なユニフォームをあんなスラっと着こなす床屋なんかよそにいないよ」
「優くんこそ宝の持ち腐れだ」
「でもしょうがないだろ。無理に結婚なんかさせられない。この先も店やるなら、できれば嫁さんとふたりでいた方がいいけど…でもじいちゃんだって何年もひとりで出来たからな」
「優くんは客に男が好きだと打ち明けられなくて歯がゆいんだ。ホモだと知ったら客のおっさん共は嫌がるだろうって」
「そりゃーなんとも言えないところだな。商売というより近所付き合いの難しいところだ。悪いことじゃないけどいいと思わないじいさん連中は多いだろう。お前らがじいさんになる頃には多少変わってると思うけど」
「変わってようがなかろうが、ジジイになった優くんに縁談持ってくる奴はいないだろ。だが若いうちはかわいそうだなあ、お節介な連中にいろいろとやかく言われて」
「そのうち言わなくなるよ。何かあんだなって察すりゃ自然と聞かれなくなってくる。噂はたっても、マジメにやってさえいりゃ悪くいう人はいないよ」
「大人ってのはめんどくせえなあ」
予定通りの食材を買い終え、軽自動車の後部座席いっぱいに袋を置き、買ってもらったアイスクリームを食べながら昼過ぎに帰路についた。いつもならこの時間は寝ているか草野球をしているかあてもなくどこかの街をふらついているが、自分に「やるべきこと」ができたのは高校を中退して以来のことであった。
「優くんが女だったら俺と結婚すればよかったのにな」
「…変なこと言うな」
「結婚さえすりゃいいんだろ?大人は体面と建前さえあればいいんだ」
「兄妹で結婚する馬鹿がどこにいるんだ」
「世間体のためにどうでもいいやつとくっつくよりずっとマシだ」
「それよりお前、ちゃんとした服持ってるのか?」
「ああ?なんでだ?」
「いつものボロ着で行くんじゃないぞ。人の家に出入りするんだからまともな格好しろよ」
「持ってない」
「ったく。じゃあ途中でユニクロ寄るから、バイト代出るまでの服もまとめて買っとけ。安いやつな」
「ついでにダウンも買ってくれよぉ〜」
「わかったわかった。でも優に見られたらまたうるさく言われるぞ」
「優くんは怒るのが仕事みたいなものだからいいんだ」
助手席から冬晴れの空を仰ぎ、時生は、新しい服を買うことが少しだけ嬉しいことに気がついた。働きたくはないが新たな挑戦をすることに多少はワクワクしているのだろうか?
これまで必要な防寒着以外の衣類など、1度たりとも自分の意思で買ったことがない。なぜなら自分の金を持ったことがないからだ。しかしこれからは違う。もしクビになっても次はウーバーイーツで働かせると言われたので、この先は否が応でも自分で金を工面させられることになるのだ。
(大人みたいだなあ)と感慨深くなるが、よく考えるとやはり面倒くささの方が断然大きかった。まだ灰枝と犬しか関わらない楽な仕事だからマシだが、明日から客や上司のいるような仕事が待っているとなったら、服など選ぶ気にすらならないだろう。
最初のコメントを投稿しよう!