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優しい世界の道標
灰色の雨は降り続く、生きし者を誘う為。
ぱしゃり、水溜まりを踏んだ音が静かに響いた。
それは一つ、二つ、と律動的に続き、人が歩みを進めている事を代弁した。
篠突く雨は未だ止む事を知らず、灰色に濁った世界を更に穢していく。
『私は......私は......』
歩みを止めた女性が膝を付き、血に染まった手で両目を覆った。
女性自身も身体の至る所に傷を負っており、もう長く無いことは誰が見ても明らかだった。
慟哭。
溢れ出す感情は止められず、胸中に蔓延る悲しみは増幅し続ける。
女性は涙が枯れるまで泣き続けた。
『こんなのって......酷いよ......』
吐露される想い。
しかしその言の葉が誰かへ届く事は無い。
全てを失った世界において、彼女の言葉など何の意味も為さないのだから。
見上げる空は黒一色。
振り続く雨は止まらない。
灰色の壊れた街、散乱する瓦礫や死体。
そのどれもに激しい損傷が刻まれており、今し方行われたであろう戦いの残酷さを物語る。
──救われた筈だった、解っていた筈だった。
それでも彼女は泣いた、心の底から。
『これは......』
目の前の死体から何かを拾い上げた女性は、ふっと口元を緩めた。
大量の人が死ぬ、そんなのは解り切っていた。
けれど、今此処で彼女は答えを拾い上げた。
『届けなきゃ......私が生きなきゃ、笑われるから』
立ち上がった女性は、雨に濡れた髪を払い除ける事もせずに再び歩む。
再び響く水溜まりを踏む音、ぬかるんだ地面が沈む音。
そんな音に感化され、一人の男が現れる。
男は下衆な笑みを浮かべ、満身創痍の女性を見て哀れんだ。
『生き残ったか、だがお前も此処で堕ちる』
自身に向けられた声に気付いた女性は立ち止まる。
『堕ちる......? 私が......?』
俯き、無邪気な少女の様な声で笑う女性。
『何がおかしい、死に損ないに何が出来る』
『死に損ないじゃない、私は殺した側。死に損ないを、殺した側』
あはは、と皮肉の篭った笑い声。
『何を訳の分からない事を』
懐からナイフを取り出した男は、女性の心臓目掛けて力一杯突き出す。
『この命は誰にもあげないよ。失う筈だった命だけれど、奪っていいのは貴方じゃない』
男の手首を掴んだ女性は背中を震わせて笑う。
心が壊れてしまったのだと、彼女は自分自身を哀れんだ。
『私を奪う権利があるのは、貴女だけだよ......?』
誰かに問い掛ける女性。
満身創痍の女性にも関わらず、手首を掴まれた男は身動き一つ取る事が叶わなかった。
それ程までに気圧されたのだ。
女性の放つ悲しみに混じった殺気に。
『私にはもう......殺せない人は存在しない』
男の腕が溶け始めた。
そして黒く仄かな光が男を包み込み、徐々に全身を溶かしてゆく。
『この......化け物があ!!』
『化け物......? そうだよ? 私は化け物、死の化身』
男は、女性の強過ぎる感情に飲まれて消えた。
『化け物かあ......』
抑揚の無い声色でぽつり。
顔を上げた女性の目は虚ろで、全て失った事を言わずと代弁していた。
一歩ずつ、ゆっくりとした足取りで歩みは進む。
『届けなきゃ......』
霞み始めた視界、失われ始めた平衡感覚。
それでも彼女は歩む。
何故なら、視えていたから。
少し離れた場所に、求める者達の姿が。
『皆......』
今、行くからね、と。
そこで彼女の意識は途絶えた。
灰色の雨は降り続く、死した者を嗤う為。
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