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「警察の世話になりっぱなしで親から勘当されて行くとこなくて、もう死んじゃおうかって踏切の前に立ってたときに、あのひとに会ったの。あのひとは私の話を聞いて、契約を持ちかけてきた。君が新しい人生を始められるようにしてあげる。その代わり、僕に一人子供をくれないか、って。私はそれに応じて、マンションと数年分の生活費をもらった。住むとこができたら仕事も見つかって、職場で知り合ったひとと結婚できた。おかげで今は幸せよ」
あまりにあっけらかんと語られて、俺は思わず苦笑した。
「幸せって……それ、捨てた息子に言う?」
「捨てたわけじゃないって言ったでしょ。……それに、あんただって幸せだったでしょ。どれだけ大事に育てられたかは、一目見ればわかるわ。私がいなくて寂しいなんて、思ったこともなかったでしょ」
確かにそうだ。母親が恋しいとも、会いたいとも思わないばかりか、その存在が心を掠めることすらほとんどなかった。だからこうも冷静に話せるのだ。
俺から恨みのオーラがまったく発せられていないから、彼女も臆することなく俺に対していられるのだろう。
彼女の俺を見る目には、母親の情らしきものはない。昔の知り合いに会った、という程度に感じられる。冷たいとは思わない。きっと俺もそうだろうから。
「じゃあ、あんたは父さんのこと好きじゃなかったんだ」
「一晩しか過ごしてないのに好きも何もないわよ。……あんなに辛そうに女を抱く男、見たことない。なんでそうまでして子供欲しいのって訊いたら、繋ぐためだって答えたわ。そこまでして後継者を作らなきゃいけないなんて、旧家って大変よね。私にはとても付いていけない。……まぁ、そんなに欲しがった子供も、あのひとは腕に抱くことなく死んじゃったけど」
バス停から、「ばあちゃ!」と声がした。
三歳くらいの男の子がぶんぶん手を振っている。バスが来るから早く来いと伝えたいようだ。傍らには母親らしき若い女の子が立っている。
中年女性はやわらかく目を細め、少し恥ずかしそうに言った。
「私の孫よ。……血は争えないもんね。うちの娘も十九歳で身ごもっちゃって。……だけど、幸せよ。私、すごく幸せ。あんたの父さんには、本当に感謝してる」
彼女はじっと俺を見つめ、
「ありがとう、守信さん。……ごめんなさい」
深々と頭を下げて、孫たちのところへ戻って行った。
若い母親……俺の妹がちらりとこちらを見たが、バスがきたので息子を抱き上げ、母親とともに乗り込んだ。
遠ざかっていくバスを見送って、良かったな、と思った。
そしてふと、違和感を感じた。
どうして俺は、自分の母親に対して、『産んでくれた人』ではなく、『繋いでくれた恩人』だと、感謝に近い感情を感じているのだろう。
強い日差しが照りつける。頭の芯がしびれていく。アスファルトの上に陽炎が踊っている。目の前に幻像が浮かぶ。街路樹の上から蝉しぐれが降り注ぐ。耳鳴りの向こうで、声がする。異なる男の声が、俺を呼んでいる。
「真守」「守継」……「守信」、「真守」
違う名前。だけど、それらはすべて俺の名前だと、心が認識する。
記憶の中の、さまざまな声の自分が、応える。
「桂史」「藤助」「彰平」、「牧」
違う名前。だけど、それらはすべて同じ男であると、心が感じ取る。
顔も違う。声も違う。だけど彼はいつも、俺の側にいた。ずっと、ずっと……あの日、寝たきりの俺に笑いかけてくれたときから。
「真守様」
そうだ、俺は、『真守』だった。
惣庄屋の家に生まれた双子の片割れ。
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