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聡い真守様は俺の警戒を察したのだろう、俺が拒むより先に、「ありがとう、ではいただくよ」と弟に微笑みかけた。
「悪いけれど、起こして飲ませてくれないかい?」
頼まれた弟は顔を曇らせ、「乞食に……」と言いかけたがぐっと口を閉じ、やや乱暴に真守様の背を支えて、その口に盃を傾けた。盃が空になると真守様からさっと離れ、俺を振り向いた。
「おまえも飲め」
徳利からなみなみ注いで差し出された盃を、俺は歯ぎしりする思いで受け取った。
真守様が血相を変えて首を振った。
「待ってくれ、私が飲んだのだから桂史は飲まなくてもいいだろう」
「よくないよ。息子が産まれた祝い酒なんだから皆に振る舞わないと。ほら早く飲みな」
促されずとも、真守様が飲んだ時点で、俺に拒む選択肢はなくなっている。止められなかった無念とともに一滴残らず飲み干した。
弟が去ってしばらくすると、真守様に異変が生じた。目玉をこぼさんばかりに大きく見開いて歯をガチガチと鳴らし、やがて堪え切れなくなったように横を向いてゲェゲェと吐きだした。
その真っ赤な吐瀉物を見た俺も、腸を引きちぎられるような腹痛に襲われていた。壮絶な痛みに膝を屈して脂汗をかきながら、動かなくなった真守様を呆然と見つめる。
たしかに警戒はした。だが、心のどこかで、まさかそこまではするまいと思っていた。いくらなんでも身内に手をかけるなんて非道なことできるはずがないと……なのに、……こんなことが、あっていいのか。
真守様はずっと、我慢して生きてきた。
両親の愛情どころか顔すらほとんど見たことがなく、唯一会いにきてくれる弟からはひどく罵倒され、どんなに辛かったろう。寂しかったろう。だけど恨み言は一言たりとこぼさなかった。耳を塞ぎたくなるような暴言にも耐えて、言い返しはしなかった。……言い返しは、しなかったじゃないか……なのに、毒を盛るのか。彼が一体なにをした。ただ生きていただけじゃないか。懸命に生きていただけじゃないか! なのに、その命まで奪うのか! こんな……こんなこと、あっていいのか……!
痛みをこらえて立ち上がった。嘔吐感を怒りで押えつけ、よろめきながら母屋へ向かう。
涼を取るために雨戸を開け放った座敷には、弟夫婦と先代夫婦がいた。酒を酌み交わす彼らの楽しげな声が、夕暮れの風に乗って聞こえてくる。
「ああ、すっきりした。やっと厄介者を始末できた」
「すぐ死ぬと思っていたのにこんなに長く生きるなんてねぇ」
「情けをかけて生かしてやっていたが、おまえが当主となり跡継ぎもできた今、あの子の存在は邪魔なものでしかない。……だが、変な噂がたたないだろうか」
「平気さ、どうせあいつは初めから『いない子』だったんだ。あの乞食も殺してしまえば、世間に知られることはない。……手を汚すのを躊躇っていたけど、やってみれば案外簡単だったよ。もっと早くやれば良かった」
はははと笑い合う彼らに、血潮が沸騰するような猛烈な殺意を覚えた。次の瞬間、俺は座敷の中に走り上がっていた。行灯を蹴飛ばして、弟の首をわし掴む。憤怒の力は凄まじく、首はボキリとへし折れた。
悲鳴が上がった。
「何をする!」先代が、俺の背中に刃物を突き立てた。
俺は吐血しながらも、抜き取った刃物で先代を斬った。泣いて逃げようとするその妻も殺した。弟の妻は、腰を抜かしながらも赤子を片腕に抱えて、這って逃げようとしていた。その背中にも、刃物を突き刺した。
赤く染まった座敷から、庭へ降りる。
血で濡れた足に、砂土がつく。全身からしたたる返り血と、口からも背中からもだらだらと流れる自分の血で赤い道を作りながら、重い身体を引きずるようにして小屋へ戻った。
真守様の隣に倒れこみ、彼の赤く汚れた頰に、赤い手を伸ばす。
「ま、もり、さま……」
ゼェゼェと喘ぎながら名を呼ぶ。
「すみませ……おれ……守れなか……った……」
自分の世界は桂史だけだと、いつか真守様はおっしゃったけれど、俺の世界だって、あなただけだった。
あなたは、いつも俺の話を楽しそうに聞いてくれた。こんな罪人の言葉を、やさしい笑顔で受け入れてくれた。そればかりか、その身で包み込んでくれた。俺はあなたの中でやっと赦しを得たんだ。
あなたは俺の全てだった。
守りたかった。ずっと。
……ああ、どうか、主よ。
磔にされた父母らが熱心に拝んでいた主よ。
俺が怒りのままに踏みにじったあなたよ。
真守様を天国に連れて行かないでください。
俺が行けない世界に、連れて行かないでください。
俺は、真守様と生きたい。真守様を守りたい。
どうか、どうか……!
頭蓋が割れるほど強く願った。そこで意識が途絶えた。
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