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気づけば、俺は屋敷の門前にいた。
吹き付けてくる熱風に煽られながら、炎を噴き上げる母屋の屋根を見上げていた。
そのとき、何かが爆ぜる音に混じって、か細い泣き声が聞こえた。誘われるように、開け放たれている門扉から中へ入る。
「藤助! あぶねぇ!」
「やめろ!」
背後がわぁわぁと騒がしかったが、かまわず先へ進んだ。煙を吸わないよう口と鼻を手で覆って泣き声がするほうへ歩いていくと、庭先に出た。
母屋から飛び火したのだろう、庭木も離れの小屋も轟々と燃えている。しかし不思議と熱さは感じない。煙たさもない。淡い燐光に包まれているようだ。
泣き声が鮮明になった。そちらへ顔を向けると、小さな手が見えた。
赤い框を上がり、黒い塊の下から飛び出ているその手を握る。もっちりした感触。覆いかぶさっている黒い塊をどかすと、赤子がいた。猛火の海にいても火傷ひとつしていない。
抱き上げると赤子はぴたりと泣き止み、代わりに穏やかな寝息をたてはじめた。
赤子を抱いてふらふらと門から出てきた俺に、村人たちは驚愕の表情で駆け寄ってきた。
「藤助!」
「その子、もしかして庄屋さんの子かい?」
「おまえ、この子を助けに行ったのか? この火の中に。自分の身を顧みず……」
ぽつり、と頰に水気を感じた。
たちまち、ザァァァーーと降ってくる。滝の中にいるような激しい豪雨だ。
「お、おお! 雨じゃ!」
「火が消えていくぞ!」
村人たちの歓喜の声を聞きながら、俺は呆然と赤子を見つめた。煌々と踊る炎が消えて、戻ってきた夜闇が視界を遮るまで、じっと見つめ続けた。
その後、焼失した矢野家の屋敷は、焼け残った蔵に蓄えられていた財で再建された。
村人たちは、代々この一帯の村々を管理してきた外面だけは良かった矢野家の血筋を尊んでおり、赤子を無理やり当主に据えて庄屋の役を負わせようとした。
だが当然、赤子に庄屋の役など務まりはしない。そこで、赤子を命がけで救った俺が世話役兼後見人として任命され、庄屋の役も代行することになった。
藤助という男の頭はとても利発だったため、その役はつつがなくこなせた。村人たちも一致団結して矢野家を盛り立ててくれた。……やがて流行り病のように蔓延した一揆の熱が、彼らの心を侵してしまうまでは。
俺は赤子に守継と名付けた。
守継様はやがて真守様によく似た少年になった。
彼の中に宿る魂が、紛れもなく真守様のものだと知るのは、彼を育てた藤助……いや、藤助の身体に乗り移った俺だけだった。
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