タイムスリップラバー

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水面に浮上した泡が弾けるように、目が覚めた。 相変わらず照りつける日差しに、短い白昼夢であったことを知る。汗を滴らせて立ち上がり、よろけながら歩きだす。 次第に、見慣れた景色になっていく。 川沿いの道。強い陽光をきらきらと反射する清冽な流れ。その両側に続く桜並木は、いまは青々とした葉を茂らせている。 なぁ、牧、おぼえてるか? おまえに肩車してもらって、この桜並木を歩いたよな。両手を広げて頭上を見ると、薄紅色の空を飛んでるみたいだった。 思い出のかぐわしい香りが肺を満たす。眼に映るすべてが愛おしく思えて、その風景を抱きしめたくなった。 切なくて、不甲斐なくて、苦いものがこぼれそうになる口を押える。指先が、やけに冷たい。 ようやく家に着いた。 しかし門はくぐらず裏手へ回り、竹やぶの中に続く細い道をふらふらと歩いていく。一歩ごとに気温が下がっていく。笹のこすれ合う音が潮騒のように響いている。 しばらく行くと墓が見えた。 藤助が建てた矢野家の墓。墓石の下には、歴代の真守の骨が入っている。 その墓を守るように、隣に建つ古びた祠。 牧だった身体は、いまごろ彼の居るはずだった場所にいるのだろう。その身体に宿っていた魂は、もう、この世から去ってしまっただろう。 だけど、彼の想いは、ここにある。 祠の中に置かれている十字が刻まれた石を動かすと、扉があった。開くと、中にはぎっしりと紙が詰まっていた。そのすべてに隙間なく文字が書かれている。 先代の俺が、死の数日前に見つけた、牧の秘密。 上層の白い紙は、この二十四年で追加されたものだろう。 一番上にあった紙に目を通す。見慣れた端正な字。記憶にはない文面。おそらく最後に書かれた言葉。 終止符を打とう。 そう決意して、あなたに、初めの名を付けた。 あなたの新しい人生が始まることを願って。 あなたが成人したなら離れようと決めていた。 だけど、できなかった。 いまのあなたは、これまでのあなたとは違う。いたずらっ子で、口が悪くて、弱音も不平不満も言いたい放題だ。とても手を焼いたけれど、だからこそ目が離せなくて、放っておけなくて、愛しくてたまらなかった。 俺はあなたを神ではなく人として愛した。そのずるさも弱さも甘えも愚かさも、あなたの行うすべてを愛し、赦せた。 そうすることで俺も、本当の赦しを得られた気がした。 毎日、あなたの顔を見るたびに幸せを感じた。 あなたが成人した後も、あと少しだけ、あともう一日だけと引き延ばし、とうとう二十四歳になる直前まで側に居続けてしまった。 俺は、やはり弱い。 信念を貫いた父母のような強さが俺にあれば、俺も、天国(ぱらいそ)へ行けたかもしれないのに。 罪深いこの魂は、あなたと同じところには行けない。それがわかっていたから、あなたを引き止めてしまった。 こんな愚劣な行為、もう繰り返してはいけない。 これで終わりにしよう。 俺が転生をやめれば、あなたは呪いから解放されるだろう。命を落とさずに済む。 俺はやっと、あなたを守れる。 もう二度と会えなくても、俺の魂には、あなたが深く刻まれている。あなたと別れることは永遠にない。 これからもずっと、俺の世界はあなただけだ。
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