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「朝食を用意しております。手を洗って居間へいらしてください」
「いらない。眠い」
短く言って、靴を脱ぎ捨て、框を上がる。そのまま二階の自室へ向かおうとしたが、深みのある声に呼び止められた。
「そうおっしゃると思い、湯を張っておきました。汗でベタベタのままでは眠れないでしょう。お風呂に浸かって着替えてからお休みください」
「……」
階段の手前で方向転換し、風呂場に続く廊下をギシギシ床板を軋ませて進む。洗面台と洗濯機のある脱衣所で服を脱ぎ捨て、奥の引き戸を開け、大の男が足を伸ばせるほど広々とした檜の湯船にザッパーンと湯を溢れさせて浸かった。
「ふぃー、極楽極楽」
満足の息を吐いて、横の窓から手入れの行き届いた坪庭を眺める。視線を上げると塀越しに裏手の竹やぶが見える。青々とした笹の葉が風に揺れるザワザワというさざめきが窓越しでも聞こえ、それが脳内で人の声に変換された。
――真守様……
「っ!」
ぞくっと身体が震える。頰が熱い。たぶん、お湯に浸かっているせいではない。
「……あの野郎、なんてことしやがるんだ。あ、あんなとこ、触りやがって」
自分がされたのではないとわかっているけれど念のため、そろそろと脚を開いてその場所を確認してみる。でも窓から差しこむ光で湯の表面がきらきらとゆらめくのでよく見えない。
不意に、熱っぽい声が蘇った。
――おまえに、抱いてほしいよ……
「のぉぉぉぉーーっ!」
頭を抱えて、湯船の縁に突っ伏した。
年季の入った桧の匂いを嗅ぎながらドッドッと激しい心音が落ち着くのを待っていると、脱衣所から声がした。
「真守様、どうかなさいましたか」
「……なんでもない」
「どうせまた湯の中で寝落ちして溺れかけたのでしょう。溺死する前に上がってください」
「うるさい。まだ入ったばっかだっつの」
「入ったばっかって……三十分経ってますよ」
「へ?」
「……あなたは昔からボケたところがありましたが、近ごろは輪をかけてぼーっとされていますね。……心配なので私も一緒に入りましょうか」
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