タイムスリップラバー

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ひどく蒸し熱い。這いつくばっている地面からむわっと立ち上る濃厚な土と草の匂い、それに紛れて香る、生臭い匂い――それを嗅いだ瞬間、耳の後ろがこわばった。冷や汗をかくまでもなく、すでに全身が濡れている。汗と、……おそらくは血で。 空気を切り裂くドン! バン! という音に上を向くと、黒々と重なった樹冠の隙間から、砂粒のような星が見えた。 夜か。 だが、それにしては星の背景が明るい気がする。地上の灯りを映しているのだとすぐに気づいた。 ……戦場か。 素早く察せたのは、何度も『飛んだ』経験ゆえだろう。もう嫌だとふて寝したいが、そうできないほど右太ももが痛い。少し移動するだけで呻きが上がる。でも悲鳴はあげるまいと手で口を押さえ、ゆっくりと匍匐(ほふく)前進しながら考える。 俺、撃たれたのか……いや、俺じゃないな。何代目のご先祖様だろ。 袖口が見えるってことは洋服か。軍服っぽいな。じゃあ、九代目……ひいじいちゃんか。 たぶん、ひいじいちゃんは被弾して逃げてたんだろうな。ってことは、俺がここで逃げるのをやめたら、ひいじいちゃんは殺されて、俺は生まれなくなるわけか。……つまり、あと一時間、この痛みに耐えて逃げないといけないのか。 絶望的な気分になりながら泥にまみれて先へ進む。右太ももに石が当たった。 「グゥッ……!」 喉がなり、じわっと涙が滲む。 やっぱ、もう嫌だぁぁぁ! 俺はタイムスリップできる。 タイムスリップといえば、漫画や映画にあるような、好きな時代と場所に行けるワクワク楽しいイメージだが、俺の場合はまったく楽しくない。 なぜなら、このタイムスリップには、俺の意思はまったく反映されないからだ。 いつも唐突だし、行けるのは過去だけ。正確には、自分の父方の先祖の身体に、俺の意識だけが入り込んでいるらしい。その選択はランダムで、世代も違えば、年代も違う。 これまでで一番古かったのは天保十二年。そのときのご先祖様は、天草南西部の村々を管理する惣庄屋の若当主だった。 この情報は、会話から得たものだ。俺はご先祖様の記憶をのぞけない。たとえるなら五感と感情付きで映画のワンシーンを観ている感覚だ。 当然、初めは夢だと思っていた。 だけどなんとなく気になって、ネットで江戸時代の天草について調べると、該当地域の惣庄屋として矢野家の名があった。 牧にそれとなく訊ねると、 「たしかに矢野家は一八四七年(弘化四年)まで天草の豪農でしたが……そのことは真守様に話していないはずです。どうしてご存知なのです?」と怪訝な顔をされたので、 「あー……社会の授業で天草の歴史を調べてて、名字が一緒だったから気になって……」と濁しておいた。 話したところでどうせ信じてもらえないだろう。いや、信じたほうが大変だ。牧のことだから心配して神経病院に入院させようとするに決まっている。 他の人にも話せない。タイプスリップなんて言い出す奴なんて、『イカれた奴』認定されて終わりだし。 そんなわけで俺はたったひとり、このイカれた能力にずっと苦しんでいる。 ……ずっと、というのは少し違うか。 最初に飛んだのは四歳の誕生日の夜。 それから毎年、誕生日の夜にだけ飛ぶようになった。 そのころは別段怖い内容ではなく、穏やかな日常のワンシーンだったけど、現実に戻ると、なんとなく落ち着かなかったり、心細かったりで、牧の部屋に行って布団に潜り込んでいた。……さすがに高校生になると、牧からひとりで寝ろと言われて、我慢するようになったが。 この能力がイカれだしたのは、去年、二十三歳の誕生日からだ。 誕生日関係なく飛ぶようになった。大学にいるときもバイト中もおかまいなく飛ぶ。 数週間空くこともあれば連日続くこともあった。最近では一日に二回飛ぶことも珍しくない。こう頻繁になると、いつ飛ぶかと気が気じゃなくて、大学にもあまり行かなくなった。……まぁ、もともとサボりすぎて留年してるんだけど。
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