第十四連鎖 「帰リ路」
豪雨の中、病院の庭に横たわっていた無言の少女。
昏倒した為に入院していた彼女の衝動的な自殺。
巡回中の警備員が発見して病院側は大騒動になっていた。
入院中の患者を動揺させない様に、極秘に警察に連絡を取る。
検視から遺体の回収まで、それは秘密裏に行われた。
それは患者達には気取られはしなかったのである。
だが自殺したと思われる生徒の学校関係者には告げられた。
丁度、同じ病院に入院していた校長と教頭。
それぞれ理由は違えども、近所だった為に入院していた。
生徒の悲劇を聞いての、二人の反応は正反対である。
心労から入院していた校長は、より体調を悪化させて伏せる。
一言も発せず、嗚咽を繰り返すのみであった。
対して教頭は直ぐに退院を希望したが却下。
掌と背中を切り付けられたのだが、出血量ほどの重傷ではなかった。
抜糸こそ済んではいなかったが充分に行動は出来る。
彼は病院を抜け出そうと考えていた。
…朝になったらマスコミに知れ渡るに違いない。
校長と一緒にマスコミの晒し者になるのは真っ平御免だ。
帰宅さえ出来れば自宅から出なければいい。
取材にさえ応じなければ、どうせ直ぐに飽きるだろうし。
抜糸なんて係り付けの近所の医者に頼めばいい。
さっさと此処を抜け出さねばならんな…。
教頭はパジャマの上にレインコートを羽織った。
そして携帯電話を握って病室を静かに出ていった。
先ずは、外部に連絡出来るコーナーに向かったのである。
自宅に連絡したとしても家内は運転が出来ないから意味が無い。
こんな天気の時に呼べるタクシーが在るのかどうか…。
彼は必死に電話を掛け続けていく。
その時に、遠くで微かに物音が聴こえた事に焦る。
かっかっかっ…、かっかっかっ…。
何かのリズムの様でいて、でも不規則に聴こえてくる…。
巡回の看護師かと一度、通話を止めて潜む。
すると先刻まで聴こえていた音が探せなくなっていた。
彼は再びタクシー会社に電話を繋げる努力を続ける。
ようやく病院に迎えに来てくれる配車を取り付けられた。
やっと一息ついた教頭は、カップコーヒーを飲む。
タクシーが到着する時間になったら裏口から帰るだけだ。
家にさえ帰る事が出来れば、美味しいマンデリンが飲めるじゃないか。
…その時である。
先刻より近い距離で、やはり物音が聴こえてきた。
かっかっかっ…、かっかっかっ…。
テレビ画面を凝視し続けていた青年。
カーテン越しに窓の外を行き来する紅い光に反応してしまう。
テレビ画面でCMが始めると直ぐに、カーテンを開いて覗き込んだ。
その光は周囲の建物の壁を滑って流れていく。
青年は見つめながら、昨夜見たパトランプの紅さを思い出していた。
…あれは病院の方角だな、…急患かも知れない。
それは彼が第一発見者となった自殺した少年、その同級生の為の光。
カノンと呼ばれていた少女の送り火でもあった。
彼女もまた、呪いのドミノ倒しの犠牲者となってしまったのである。
もはや青年はニュース画面から目を逸らせられなくなっていた。
彼には予感と確信だけが残っていたのである。
もっと事件は続いていく…、もっと犠牲者は増えていく…。
先刻よりも近くで聴こえた物音に怯えた教頭は1階へと降りる事にした。
受付の待合室でタクシーの到着時間まで過ごそう。
フロアのライトさえ点けなければバレないだろうと考えた。
だけどあれは何の音だろう…?
何かと何かがぶつけられている様な不自然な音だったが…。
彼はエレベーターで降りるのは避けて非常階段を選んだ。
最小限の照明だけで薄暗いが降りる事にした。
何か在ったとしても此処は病院だ、…安心安心。
携帯電話フロアを出て階段を降り始めた時の事である。
彼が出て来たフロアの方から、やはり小さく物音が聴こえた。
…ぱしゃり。
何か魚が跳ねた時の様な水音が、聴こえた気がしたのである。
雨漏り…?
…まさかね。
教頭は気のせいにして、足音を立てない様に階段を降り始める。
それは彼の飲み残したカップコーヒーが倒された音であった。
…何らかの理由によって。
残っていたコーヒーはテーブルを伝って雫となり垂れる。
…それはまるで流血の様に。
オカルト系雑誌のライターとデスクは、互いに絶句していた。
カメラのフォルダでは再生されなかった太った少年の写真。
それが互いのスマホの写真には写っているのだから。
同じ現場写真であるにも関わらずである。
もはや何の科学的根拠も無く、何の論理的説明も出来ない。
「デスク、これは一体…!」
「落ち着けよ新入り、これは写真の子供が選んでいるんだろぉ。」
「選ぶ?」
「スマホの方が移動と拡散が手軽だからさぁ…。」
こんな状況下で、この人は何を言ってるんだ…?
確かに犯人の射殺現場で見た少年に間違いは無い、だけど。
写真によって写ったり、写らなかったりなんて在り得ないだろうに。
だけど確かに見えている…、これは幻覚なのか?
俺とデスクが同時に幻覚を見ている…?
現在の状況が理解も知識も超えてしまい、彼は頭が朦朧としてきた。
そして、どう対応すれば良いのか全く見当も付かないままである。
「人間が何で暗闇を怖がるのか解るかぁ?
本能だ、…記憶と言ってもいい。
太古の大昔、まだ火が無かった頃の記憶だぁ。
人間は暗闇のせいで獣の餌になってきたんだよぉ。
だからDNAが暗闇を怖がらせるんだぁ。」
ライターは何も返せずにデスクの言葉を聞いていた。
彼は続ける。
「幽霊とかが怖いのは他人だからだ、人間が怖いんだよぉ。
人間が怖いのを深層心理では理解しているんだぁ。
それを社会性とやらで抑えているに過ぎない。
人間は決して性善説では成立しえないのさ。
…外の膨らみって奴だなぁ。
それが、現在の状況で顕在化してきたって訳。」
「現在の状況…、ですか?」
ライターは一言だけ返せた。
「人間は増え過ぎているんだ、特に先進国の都市部では…なぁ。
だからテレビ等の疑似空間を必要としているんだよぉ。
動物は一定の空間で増え過ぎるとストレスで個体を滅ぼす。
他の個体に対する攻撃性も増大していく。
特に最近、異様な事件が増えているとは思わないかぁ?
もうテレビなんかじゃ抑えきれなくなってきてる。
それで皆が目を付けたのがネットのバーチャル空間だぁ。
テレビよりは双方向性が高い上に無限でもあるだろぉ?」
「ネットの世界で別の自分を構築するって事ですか…?」
ライターはデスクの話が分かりかけてきた。
デスクは質問に、さらりと恐ろしい答えを言ってのけた。
「別の…と言うよりは、次の自分って事かなぁ。」
…ぴちょっ。
背後から聴こえてきた水滴の落ちる音に教頭は足を止めた。
そして何の音か確かめようと耳を澄ましたのである。
…ぴちょっ。
彼はカップコーヒーを飲んだ事を思い出した。
だが雫の音がしているのは不自然である。
自動販売機に残っていたコーヒーが垂れた音?
いや、そうじゃないよな…。
耳を澄まして考えていた、その時である。
…ことっ。
倒れた紙カップがテーブルから床に落ちた音だった。
だが教頭には、それが何によるものなのか見当も付かない。
…窓も無いスペースなのに、…風?
その時である。
かかっ、…かっかっかっかっ。
今度はハッキリと何かの音が聴こえてきた。
何かの意思を持って出されている音が、確かに近付いて来ている。
何かで壁を軽く突いている様な音。
それが彼に続いて階段を降りて来ているのであった。
彼は背筋が凍り付いていくのを感じ始める。
これは…只事じゃない。
只者の気配じゃない。
彼の、まだ抜糸が済んでいない傷口が痛み出してきた。
まるで何かを彼自身に報せる様に。
彼は早足になって階段を降りて1階に着いた。
そして裏口に廻ってドアを開ける。
いつもなら電子ロックにより開けられない事など知る由もない。
裏庭から表玄関に廻り、門が見える場所に辿り着いた。
…と同時に、彼が呼んだタクシーが門前に停車する。
地獄に仏…小走りになってタクシーへ向かった。
ドアを開けながら運転手が話し掛けてくる。
「ちょっと早く着いたんですけど、丁度良かったみたいですね?」
「ありがとう、本当にありがとう…。」
教頭はバックシートに座り込んでホッとした。
安心し過ぎて涙が滲んできてしまう。
それを隠す意味も含めて、雨に濡れた眼鏡を外して拭き始めた。
「それじゃ、電話で話した住所までお願いするよ。」
「はい、かしこまりました。」
そう返事は返ってきたものの、運転手は発車する気配が無い。
それどころか、雨降りにも関わらずドアさえ閉めないのである。
不思議に思った彼は運転手に尋ねた。
「運転手さん、どうして出さないのかね?」
「…でも、お連れさんがまだ…。」
「…連れ?」
教頭はバックシートから病院の方を振り返って見た。
拭いていた眼鏡を掛け直して、目を細めて凝視する。
裏口の方から門に向かって、一人の女性が歩いてくるのだ。
重傷の患者の様にギクシャクとした動きで。
喪服を身に纏っている彼女は、手に包丁を持っていた。
「…副…会…長?」
それは正に彼を切り刻もうとして射殺された犯人であった。
その手には彼に重傷を負わせた包丁さえ握りしめている。
「…の…幽霊?」
その言葉を聞いた瞬間に、運転手はドアを閉めた。
教頭は彼女を見たまま固まって震え続けている。
運転手はタクシーを急発進させた、もはや客よりも自分の安全の為に。
その瞬間に副会長は走って追い掛けてきた。
無表情ではあるが大きく口を開けて叫びながら。
その咆哮は教頭と運転手を恐怖で戦慄させるのに充分であった。
彼等の車が病院の角を曲がり門が見えなくなっても聞こえてくる。
この世のものとは思えない濁った叫び声。
病院の壁伝いに道を進んで大通りに差し掛かった。
大通りと交差する直前に一時停止して車の途切れるのを待つ。
震える声で運転手が教頭に聞いてきた。
「…あれは一体、…幽霊って?」
「死んでるんだよ彼女は、…撃ち殺されたんだ。」
「ですが…。」
「あれは幽霊だよ…、幽霊なんだ…。」
その時である。
一時停止中のタクシーのボンネットに何かが落ちてきた。
どずん。
それは病院の壁から跳び降りて来た副会長であった。
彼女はボンネットの上で膝立ちになり、彼等の方を向く。
視線は全く彼等を見てはいないが、振り上げた包丁の切っ先は向いていた。
「ひいいいいっ!」
「うわぁっ!うわぁっ!」
教頭は叫び声を上げながらバックシートの足許に身を伏せて隠す。
運転手は急バックして彼女を振り落とした。
彼女は再び立ち上がってきて包丁を彼等に振りかざす。
運転手は急発進して彼女を轢いた。
その瞬間にボンネットに彼女が握っていた包丁が突き立てられる。
「はぁっ…、はぁっ…。」
初めて人らしきものを轢いてしまった運転手は茫然としていた。
その眼は真っ紅である。
そして、その眼で信じられないものを見た。
血まみれの彼女が再び立ち上がり、ボンネットの包丁に手を掛けたのだ。
「ああああ!」
またも運転手はタクシーを急発進させて彼女を轢いた。
そしてそのまま大通りに無理矢理に進入していったのである。
教頭の住所に進路は決めている、その後で警察に出頭すればいい。
ボンネットの包丁を見れば信用して貰えるかも…。
…その時である。
タクシーの進路に急に太った少年が現れた。
入り込んできたのではなく、突然現れたのである。
少年を急カーブして回避したタクシーに軽自動車が激突した。
がガガガ!
運転席に横から衝突された為に運転手は即死。
回転して停止したタクシーの中から教頭が這い出してきた。
運転手の血を浴びて視界がぼやけている。
事故の衝撃と強度の打撲で朦朧として彷徨う様に歩いていた。
その彼の眼が、これ以上は無いほどに見開かれる。
目の前に、再び副会長が姿を現したからだ。
「…そ、…そんな。」
副会長を避けて逃げようと後ろを振り返った彼の前に血まみれの少年。
それは彼の学校の生徒であった。
二人に挟まれた教頭は車道を横切って逃げようと突っ込んでいく。
急に車道に飛び込んできた彼を、大型トラックが轢き潰した。
ききききーっ!
その瞬間の映像はドライブレコーダーに記録されていたのである。
急な車線変更により軽自動車と事故を起こしたタクシー。
そのタクシーに客として乗車していたのが被害者。
彼はタクシーから這い出してきて朦朧としていたのだ。
だが突然、叫び声を上げながら大型トラックに突っ込んでいった。
ドライブレコーダーから彼の最期の音声が響く。
「…そ、…そんな。」
即死してしまった運転手以外は、彼は終始一人だけであった。
ドライブレコーダーを見た者の全てが、その解釈に苦しむ。
何が彼を駆り立てたのだろうか…?
軽自動車に衝突されたタクシーはグシャグシャである。
だがそのボンネットは綺麗なままで、傷一つ付いていなかった。
教頭は望んだようにマスコミに質問される対象にはならずに済んだ。
だがマスコミに質問される内容には、なってしまった。
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