第1章 流されガール、丸め込まれる

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     *  恋人役を引き受けてしまってから、一週間が経った。  イミテーションラブ。恋愛の真似ごと、模倣。そういうものを、よりによって職場の上司と演じることになるなんて、想像すらしていなかった。それなのに。 『任せとけ。悪いようにはしない』  以前そんなことを言っていたけれど、もしかしたら私の思い違いだったかもしれない。そう感じてしまう程度には、沓澤代理のその後の対応は、完全に――いわゆる〝塩対応〟だ。  帰宅時に並んでオフィスを出た後、塩対応は一気に顕著となる。  沓澤代理は、私の肩以外には触れない。手を繋ぐことももちろんない。その辺りは徹底してくれていた。私に対する心遣いなのかどうかまでは分からないけれど。  オフィスを出て、最初の交差点を曲がる。  その直後、いつもそれは同じタイミングで訪れる。 「じゃ」  ……お疲れ様、のひと言もない。  私の歩幅に合わせるようにゆっくり進められていた歩みはすぐさま速度を増し、あっという間に、沓澤代理は私から離れていく。  あ、はい……という私の声もきっと届いていない。聞く気もなさそうだ。  これでは浮かれる気も起きない。そもそも私は毛ほども浮かれてなんていないのだけれど、徹底してくれる分、心から安堵を覚えてしまう。  勤務中に彼と接してきたおよそ一年の間、そつないやり取りを心がけてきたために、私が沓澤代理の本性を知る機会はなかった。  ただ、どうやら顔を使い分けるタイプらしい。二重人格とも違う。多分、時と場合に応じて使い分けているだけだ。  上辺の顔は爽やかで表情もやわらかい。元々整った顔をしている分、相乗効果がなおさらすごい。すっと通った鼻筋や、目を細めたときに覗く奥二重の瞼の弧。個人的に目を惹かれるのは、男の人にしては少々厚めの唇だ。おそらく無意識なのだろう、うっすらと開いていることがあり、見ているこちらが恥ずかしくなってくるくらいに色っぽく見えてしまう。  唐突に目を逸らしたり、顔を背けたりするようになったのは、給湯室での一件以降だ。  それまでは気にしていなかったし、気になりもしなかった。なにせ相手は上司だ。ひとりの男性として視線を向けたことがなかった分、給湯室でのやり取り以降の私の挙動不審さには、ますます拍車がかかっていく一方だ。  最初からフェイク役を頼まれている以上、当然なにかを期待しているわけではない。仕事での接触しかなかった人に、〝恋人役の男性〟という厄介な属性がプラスされてしまったために、妙な動揺に襲われているだけだ。助けてもらった恩があるから無下にもできない。  給湯室での一件以来、雄平とは一度も顔を合わせていない。  ある程度の効果はもう出ているのかもしれない。単にタイミングが合わないだけという気もするし、元々雄平とは部署もフロアも違うから、そう頻繁には接触しない。あの日待ち伏せされていたのも、ああでもしない限り、私たちが顔を合わせる機会はほぼなかったからだ。  けど、きっとそれだけではない。  沓澤代理から告げられた条件のひとつ、〝しばらくの間〟という話を思い出す。その言葉を言葉通りに信じるなら、この関係はいずれ解消となる。周囲の好奇心まみれの視線は少々堪えるものの、それまでの辛抱だ。  それに、沓澤代理がそれなりに柔軟な姿勢を見せてくれることも、無理にこの関係を解消しなくてもいいかなと思ってしまう要因だった。 『あのぅ……同期に事情を伝えてもいいでしょうか』 『いいよ。総務の宮森だろ』 『えっ?』 『付き合ってないっていう噂にはしないでもらえるなら、別に構わない』  付き合っているのかもしれないし、付き合っていないのかもしれない。  そのくらいの、微妙に決定打に欠ける情報のほうが噂として広まりやすい。そうやって噂が広まれば広まるほど助かる……だそうだ。  ただ、沓澤代理は一点、重大な問題を看過ごされていらっしゃる。  女性陣の鋭い視線は、結局、沓澤代理ではなく私に向くのだ。  今のところ、攻撃的な言葉をぶつけられたり嫌がらせをされたりといった露骨なトラブルはない。けれど、この先ずっと大丈夫だという保証もない。その点が憂鬱だった。  だから、同じ本社内で頼りにできる果歩に相談しても良いと言われたことは、私にとっては救い以外の何物でもない。
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