第2章 小間使いガール、職務に勤しむ

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《3》火に油の擁護策 「いや~、私も噂は聞いてるよ。那須野さん、本当に災難だねぇ」  社長室のソファは、外観の年季の入り方からは考えられないくらいにやわらかい。けれど今の私には、そのやわらかさを心地好いと感じていられる余裕なんて、これっぽっちも残っていなかった。  顔全体に貼りつけた笑みがぴしりとひび割れた気がして、思わず指で頬をなぞる。当然ひびが入っているわけはなく、けれどそこに触れた指を引き剥がすことはできそうになかった。  社内メールで呼び出しを受け、私とともに社長室へ呼び出された諸悪の根源・沓澤代理は、隣に悠然と腰かけたきりで怯みもしていない。  挙句の果てに、恐縮しきりの私へ「顔のパーツがひん曲がっていますよ」と失礼な発言まで繰り出してきた。遠慮も容赦もなくて嫌になる。  金曜、午後。私たちは揃って社長室に呼び出されていた。  一週間前にもここを訪れた。古くもない記憶のはずが、何年も前のことのように感じられ、私は溜息をついてしまいそうになる。よりによってこの面子の前でそれはまずいと思い直し、零れる寸前で、なんとか喉の奥に押し込めて凌いだ。 「はぁ。僕も那須野さんも忙しいのでさっさと用件を話してもらえませんか」 「えっ忙しいの? じゃあお前は戻っていいよ、那須野さんだけ残ってもらえれば……」 「駄目に決まってんだろ。なに吹き込むつもりだよ」 「あらあら、『吹き込む』なんて人聞きが悪いねぇ、さすが私の息子だねぇ」 「そりゃどうも」  途中から丁寧語を脱ぎ捨てた沓澤代理の声は、普段よりも低い。  かなり不穏な親子の会話を前に妙な声が出そうになったところを、私は無理やり我慢した。  用件を考える。それに、社長はなにをどこまで知っているのか。本当に。  一週間前にも同じことを思った。そのときと、疑問の内容がこれっぽっちも変わっていない。私こそこの一週間なにをしていたのか、と憂鬱に拍車がかかる。 「うーん、じゃあ沓澤君の機嫌がこれ以上悪くなる前に……単刀直入に訊くけど、君たちって付き合ってるの?」 「付き合ってないです」  沓澤代理は即答した。私なんてまだ口も開いていない。出遅れての対応に迷いつつも、私は社長に視線を合わせ、こくりと頷いてみせる。  へぇ、と穏やかに笑う社長は、本当にそれを知りたかったのかと疑わしくなるほど平然としている。本当に聞きたいことや確認したいことは、どうやらその点ではなさそうだ。  底の知れない不安を覚え、私は再び身を固くする。しばらく続いた沈黙の後、沓澤代理が溜息交じりに口を開いた。 「そう見えるように協力してもらってる。こないだ家に帰ったときも、妙な話ばっかりしてた人、いたでしょ。その辺の対応もいずれしてもらうつもり」 「ああ、母さんか。そういえばなんやかんや言ってたかもねぇ、(かん)()さんのお嬢さんがどうとかこうとか」 「……そういうのが面倒くせえんだっつの」 「でも那須野さんのこと、母さんは知らないぞ?」 「社内が先っていうだけ。けど一応言っといて。当然、本当のことは喋らないでください」  会話の中に知らない名前が登場したものの、私には誰なのか分からなかった。  得意先や取引先の中に同じ名のところがあるかどうか、思い浮かべてみるけれど、私が把握している中に菅野という名前は存在しない。思い当たる従業員もいない。〝菅野さん〟は、会社関係の人物ではないのかもしれなかった。  沓澤代理は、私を使って、社内のみならず社外の人間まで牽制したいのかもしれない。  そういう事情は先に教えておいてくださいよ、私、一応当事者ですし……と、疲れた頭で思った。そろそろ心労で痩せそうだ。 「那須野さんはその辺、ちゃんと了承してるのかい?」  突如矛先を向けられ、私は弾かれたように顔を上げた。温厚そうな社長の視線と私のそれがかち合い、私は曖昧に笑い返すしかできない。  はい、と声を絞り出すと、社長はその日初めて物憂げな吐息を零した。なにか余計なことでも言ってしまったかと一瞬背筋が冷えたけれど、社長は私にではなく、息子である沓澤代理に対してそれを零したのだとすぐに思い至る。 「事情は分かった。先週、書類をお願いしたときは相当に動揺してたもんねぇ那須野さん……そのときからおかしいとは思ってたんだけど、そういう事情だったとはねぇ」 「っ、申し訳ありません。騙すような真似を……」  反射的に口をついた謝罪の言葉に、社長は目を丸くした。
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