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プロローグ
確かに、困っているところに助け舟を出してもらった。
恩はある。だからこそ無下にするのもためらわれてしまう。さらには、頼みがあるという彼の言葉に、渋々とはいえ従ったのは他ならぬ私自身だ。それでも。
いくらなんでも、これはない。
デスクの前方に積まれたリングファイル越しに、露骨なほどじっと見つめられている。
よりによって彼のデスクは向かいだ。視線を遮ることは難しい。分厚いファイル群にそれを期待しようにも、残念ながら少々高さが足りない。
午後五時三十分。定時のきっかり十秒前、彼が席からすっと立ち上がる。
……ああ、来る。結局今日もこうなってしまうのか。分かってはいたけれど。
私の真横で足音がぴたりと止まる。
周囲の同僚たち、果ては上司までもごくりと生唾を呑んだ音が聞こえた気がして、居た堪れなくなる。
「那須野。帰るぞ」
肩にぽんと手を乗せられ、毎度ながら私は震えてしまう。
座る私に合わせて身を屈め、わざと耳の傍へ顔を寄せて囁く辺りには、もはや悪意さえ感じる。
あからさまなこの震えが相手に伝わらなかったわけはない。内心で頭を抱えつつ、私はなんとか「はい」と掠れた返事を絞り出す。
視線は逸らしたままなのに、頭上の彼が満足そうに笑った顔がはっきりと想像できて、私は思わず目を瞑った。
――あり得ない。
どうして、こんなことに。
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