3603人が本棚に入れています
本棚に追加
*
果歩に相談を持ちかけた翌日、沓澤代理が欠勤した。
体調不良とは小耳に挟んでいたものの、私は〝ふーんそっかぁ〟くらいにしか考えていなかった。けれど昼休憩中に事態が急変した。社長から直々に内線電話が入り、社長室まで呼び出しを食らっ……いや、受けたのだ。
社長室に足を踏み入れる機会自体、一事務員の私には滅多にない。
緊張に全身を強張らせながら扉をノックすると、どうぞ、と間延びした声が聞こえてきた。
……社長だ。やっぱり本人だ。
泣きたい気持ちを堪え、失礼します、とドアを開く。
五年前、本社は大規模な改築を行っている。古めかしさを感じさせる二階建てのオフィスは、店舗のコンセプトと同様に、近代的な造りに建て替えられた。
私は改築前のオフィスを知らない。先輩社員や上司たちが過去の話題を取り上げるときなどに小耳に挟む程度の知識しかなかったけれど、誰に聞いたのだったか、社長室だけは当時と同じだそうだ。
こぢんまりとした室内に、色褪せ気味のカーペット、中央に配置された窓、ブラインドの隙間から差し込む日の光に照らされた傷の目立つデスク。古いデスクもカーペットも、社長室の中の調度品のどれもが、建物が新しくなっても当時と同じ――これは社長の意向だという。
辞令の交付以来、社長室に足を踏み入れたことはなかったけれど、記憶にある室内と完全に同じだった。
私の記憶よりも遥かに古い頃から、このオフィスの中で、ここだけが昔のまま。既視感が脳裏を過ぎって、けれど次の瞬間には、それは単に私の中に残っている記憶に他ならないと気づく。
わざわざ悪いねぇ、とやはり間延びした声が不意に聞こえ、私は強制的に目の前の現実に引き戻された。
「那須野さん、こっちに配属になってから一年が経ったねぇ。どうだい、今の仕事には慣れてきたかな?」
「は、はい。おかげさまで」
深く頭を下げつつ、私は用件について忙しなく考える。
ふくよかな体型をしている社長は、比較的気さくなタイプで、店舗や他営業所への訪問に関してもフットワークが軽い。協力企業や取引先にもよく出向く。今日のように社内へ留まっている日はむしろ少ない。
なんだろう。なにかやらかしたかな、私。
応接用のソファへ促され、背中を冷たいものが伝い落ちていく。
相手にも緊張が伝わったのかもしれない。人の好い顔をさらににっこりと微笑ませ、社長はテーブル越しに書類を差し出してきた。
半透明のクリアファイルに挟まれた数枚を見つめた後、首を上げて社長の顔を眺める。社長は薄い笑みを――それだけは沓澤代理が浮かべる笑みによく似ている――浮かべ、口を開いた。
「この書類を、奏……失礼、沓澤君に届けてくれないかな」
穏やかに微笑む社長と派手に視線がかち合い、頬が引きつった。
「はい……?」
「はい、沓澤君の住所。知ってるとは思うけど、一応ね。今日の退勤後に届けてもらえるかな? もらえるよね?」
一気にまくし立てられ、二の句が継げない。
いや、あの、と意味を成さない言葉ばかり零す私に、社長は有無を言わさずさらにクリアファイルを押し出してくる。住所が記されているメモ用紙は、いつの間にかさりげなくクリアファイルの中に一緒に入れられていた。
「あの、社長。そのようなお仕事は、私……」
意を決して放とうとしたお断りの口上は、相手の微笑みに掻き消されてしまう……いや、どちらかといえば、微笑みの裏にちらちらと垣間見える落ち着き払った視線に、かもしれなかった。なにもかもを知っているぞ、とでも言いたそうな目だ。
威嚇とまではいかないけれど、それは私に恐怖を抱かせるに十分だった。
「よろしくお願いできるかな?」
し、社長はどこまでご存知なんでしょうか?
社長って沓澤代理のお父様ですよね? ご自分で行かれてはいかがでしょう? 他人の私がわざわざ出しゃばるところじゃないですよね、ここ?
……という声が口をついて出ることは、結局最後までなかった。
「……は、はい……」
渇ききった喉を通る自分の声は、異様に掠れていた。
思っていることと真逆の反応を示してしまったと気づいたのは、声を発した後。
――馬鹿か、私は。
押しに弱い自分の性質を、私はこのとき心の底から呪った。
満足そうに頷いた社長は、ダメ押しのつもりなのか、またもぐいぐいとクリアファイルを押し出してくる。
控えめに指を伸ばしてそれを受け取りながら、私は、臓腑の底から絞り出したような深い溜息を心の中だけで漏らした。
最初のコメントを投稿しよう!