第2章 小間使いガール、職務に勤しむ

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第2章 小間使いガール、職務に勤しむ

《1》柚子にはちみつ  午後はもう、仕事できている気がしなかった。  ひどいミスをしてしまっていないか、就業時間が終わってから不安になった……いや、私の就業時間はまだ終わっていない。  手元のクリアファイルを握り潰しそうになる。  沓澤代理の住所が記されたメモをクリアファイルに差し込みながら、〝全部分かってますからね〟とでも言いたげに笑んでみせた社長の顔を思い出し、ぞわりと背筋が冷えた。  社長は、一体なにをどこまでご存知なのか。  私たちが付き合っているかもしれないという曖昧な噂を信じているのか、それがフェイクだということも知っているのか。あるいは両方とも自分の息子が仕組んだ茶番だということまで把握しているのか。判断はつかない。  社長の、少々……いや、かなりふくよかな体型が脳裏に蘇る。  社長と沓澤代理は、体型はもちろん、他の外見もあまり似ていない。でも、上辺の顔はなんとなく似ている。すっと目を細める薄い微笑みは、社長室で目にしたばかりだ。それに、腹の中でなにを考えているのか察しがつきにくいところもよく似ている。  途中で地図アプリを起動させ、沓澤代理の自宅を目指す。  ひとり暮らしだったのか、と改めて思う。メモに書かれた住所には、集合住宅と思しき固有名詞と部屋番号が記されている。  社長や社長夫人と一緒に暮らしてはいないのかと考え、それはそうかとすぐに思い直した。もしそうなら、社長が私にこんな頼みごとをするはずはない。  突然部屋に押しかけられたら、沓澤代理だって困るだろう。社長はどこまで彼に事情を伝えているのか――そう思い至ってから、そういえばこの端末には彼の連絡先が入っているのだったなと気づいた。  他人の端末を勝手にいじる長い指を思い返し、ついつい苛立ちながらも電話をかける。ところが、無機質な呼出音は途切れない。応じてはもらえないようだ。コールがふた桁に達したところで諦めた。  今度はメッセージを入れる。  こちらは早々に既読マークがついた。端末の確認はしているらしい。 『もうすぐ着きます』  わざと馴れ馴れしく、かつ焦らせるような文面にした。  日頃さんざん私を面倒ごとに巻き込んでいる彼へ、このくらいのささやかな仕返しは許されてもいい。  ほどなくして、一軒の賃貸マンションに到着した。  二〇一号室。どうやら角部屋だ。メモに記された部屋番号をじっくり再確認してから、インターホンに指を伸ばす。  ピンポーン。  音がしてからたっぷり十秒が経過して、もう一度押してみようかと再び指を伸ばしたところで、内側からガチャガチャと解錠される音がした。心なしか焦りの滲んだ音に聞こえ、なんとなく溜飲が下がって、でも。 「……えっ……」  ガチャリと開いたドアの隙間から見えた姿に、私は言葉を失くした。  焦りきった顔で出てきたのは、黒の上下ジャージ姿に黒縁眼鏡、加えて思いきり寝癖がついたボサボサ頭の沓澤代理だった。  だ、誰だ、この人。  瞬きも忘れて相手を見つめて数秒、直後に手元のメモを震える指で確認する。  二〇一号室。間違いない。間違っては、いない。 「すんません、あの、着替え間に合わんかった……」 「い、いえ……」  掠れてはいるけれど、声はしっかり沓澤代理のそれだった。間違いなく本人だ。  沓澤代理でもジャージとか着るんだな、という率直な感想がおそらく顔に出た。眼鏡の沓澤代理は露骨に顔をしかめながら、忌まわしそうに私の手元を眺めている。  あのメッセージはさすがにやりすぎだったかも……それでなくても、もう少し早めに送るべきだったかもしれない。  一瞬、そんな反省が頭を掠める。連絡先が端末に入っていることを思い出したのがあのタイミングだったから、あれ以上早く送るのは無理だったけれど、一度浮かんだ罪悪感は、薄いわりになかなか消えてなくならない。  とはいっても、私は私で仕事が終わってからも業務に拘束されているようなものだ。さっさと用件を済ませてしまおうと、私はバッグから例のクリアファイルを取り出した。
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