第2章 小間使いガール、職務に勤しむ

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「あの、昼頃に沓澤社長に呼び出されまして、就業時間後に沓澤代理へこちらの書類を届けてほしいと……」  どちらも〝沓澤さん〟である上に淡々と口を動かしたため、早口言葉じみた喋り方になる。沓澤代理も似たことを感じたのか、寝起き特有のぼうっとした素振りを見せつつも、眉をぐっと寄せている。別に私は早口言葉を楽しんでいるわけではない……と思いながら、私はクリアファイルを彼へ差し出した。  決まり悪そうにファイルを受け取った沓澤代理は、普段からは想像もつかないほどぼそぼそと言い訳がましく喋り始めた。 「さっき親父……いや、社長からあんたが来るって連絡入って、そのすぐ後にあんたからメッセージ入ったからぶっちゃけ寿命縮んだわ……」 「も、申し訳ありません。いくらなんでも急すぎましたよね、メッセージ」 「いや、別にあんたのせいってわけじゃないけど……マジでなに考えてんだ、あのおっさん……」  開いた玄関のドアに寄りかかったまま、沓澤代理はファイルを持つそれとは逆の手で額を押さえた。  見慣れたスーツ姿ではないからか、寝癖に眼鏡という普段らしからぬ格好だからか、気を抜くと別人に見える。ついでに言うなら実年齢より遥かに幼くも見える。  ついついうっかり余計なことを口走ってしまいそうだ。そんな自分が怖かったし、また信用も置けなかったから、私は早々に頭を下げる。 「で、ではお休みのところ失礼しました。私はこれで」 「ああはい、わざわざご苦労さん……ゴフッゴホゴホっ」  返事を聞きつつ踵を返したそのとき、乾いた咳が聞こえてぎくりとする。  咄嗟に振り返ってしまう。声が掠れているとさっきも思ったけれど、もしかして今日の欠勤はそれが理由なのか。 「大丈夫ですか? 今日の欠勤、体調不良って……」 「あー……うん。風邪」  私から露骨に目を逸らして呟いた声は、どこか拗ねたような調子だ。感じたばかりの幼い印象に拍車がかかる。高校生とまでは言わないけれど、大学生なら十分通りそうだ。  眼鏡をかけているということは、普段はコンタクトレンズを使っているのだろうか。眼鏡、似合ってるとけどな……とまで思ってからはっとした。  この状況で、私はなにを呑気なことを考えているのか。 「え……と、ちゃんと食べてます?」 「そういうのは大丈夫」  直前の思考が反映されてか、まるで若い男の子を心配するお母さんじみた質問になってしまう。しかもそれに対して突き放すような声で即答され、背筋にピリッと緊張が走った。  壁を感じる。場に流れる空気が、すっと温度を下げた感じが確実にあった。  馴れ馴れしさが度を越した、その自覚はある。私はこの人の恋人役でしかなく、余計な干渉は一切不要。そもそも、今日こうやって自宅を訪ねていること自体が、彼にとってはきっと不本意以外の何物でもない。 「そうですか、良かったです。お大事に」 「どうも」 「それでは私はこれで……あ、そうだ」  努めて平静を装った私の挨拶に、沓澤代理はわずかながらも安堵した様子だ。  けれど、どうしても枯れた声が気になってしまう。少し迷った後、私はバッグの中をごそごそと漁り出した。完全に偶然だけれど、今日は確か喉に良さそうなフレーバーを選んでいたはずだ。  玄関先でバッグを漁り始めた私を、沓澤代理が怪訝そうに眺めている。  私が取り出したのは、円筒型の缶がひとつ、ふたつ、三つ。それぞれに巻かれたラベルシールを見たらしい沓澤代理が、微かに目を見開いた。
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