第2章 小間使いガール、職務に勤しむ

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 メロン、ハッカ、柚子はちみつ。それぞれが別々の缶入りだ。  私が両手をいっぱいにして持つそれは、昨年まで勤めていた店舗で購入した飴の缶だ。突然の自社製品の登場に、沓澤代理はぽかんと目を見開いたきり動かない。 「余計なお世話かもしれないですけど、もし良ければお好きなのをどうぞ。すみません、ちゃんとしたのど飴って持ち歩かないので」 「ええ……それ完全に自社製品じゃん。愛社精神すごいな」 「こ、このシリーズの飴が好きっていうだけです。無理やり買わされたとかそういうわけでは決して」  やはり余計なお世話だったかもしれない。  すぐに立ち去れば良かったと後悔を覚えたけれど、意外にも沓澤代理の関心はしっかりと私の手元へ向いている。しかも先ほどよりも表情がやわらかい。楽しそうにさえ見える。  なんだろう。  数種類、缶ごと飴を持ち歩くOL……そんなに面白いかな。まぁ面白いかもしれない。 「なに、あんたその缶全部いっつも持ち歩いてんの?」 「そ、そうです。日替わりで」 「缶ごと?」 「缶ごとです」  努めて真面目に答えると、堪えきれないとばかりに沓澤代理が笑い出した。  あはは、と声を出して笑われて、本当なら恥ずかしさや笑われたことに不快感を覚えてもいいはずが、屈託なく笑う相手に目が釘づけになる。  ダルダルの服装と見慣れない眼鏡、猫背気味の背中、若干嗄れた声……錯覚しそうになる。  誰だっけ、この人。  本当に沓澤代理なのかな。 「じゃあゆず、ちょうだい」 「……は?」 「それ。柚子……はちみつ、だっけ? 喉に良さそうだし」 「っ、は、はい」  慌てて缶を持ち直し、残りのふた缶をバッグにしまう。  柚子はちみつ味の缶の蓋を開けつつ、走った動揺をごまかした。ごまかしてもごまかしきれないと分かっていて、それでも平静を保たなければと、それだけで私の頭はいっぱいになる。  名前、呼ばれたかと思った。  しかも、ゆず、ちょうだいとか、やめて。  危なすぎる。危うく誤解するところだった。  顔が赤くなった自覚はある。蓋にかかる指が異様に震えてしまっていることも分かっていた。 「……どうした?」  訝しむような問いかけに、返事はできなかった。  ビニールの個包装に包まれた飴を三個、沓澤代理の手の中へ無理やり押し込む。 「わた、私はこれで、失礼、します!」  いっそ、なにも言わずに立ち去ったほうがよほど自然だったのでは。  心の中だけで頭を抱えながら、私はくるりと踵を返し、逃げるようにアパートの階段を駆け下りた。
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