第2章 小間使いガール、職務に勤しむ

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「いいですよ、慣れてるので。私、昔バレー部だったんですよ。これはつき指の痕です」  沓澤代理の視線が、いまだにぽっこりと腫れて見える右手人差し指の関節に向いている気がして、私はそう説明する。  彼はすぐに納得したらしく、へぇ、と声をあげた。 「簡単に想像つくな、バレー部とか」 「そうでしょうね。ちなみに女子にモテてましたよ、男子には全然でしたけど」 「それもスムーズに想像できる」 「さりげに失礼ですよそれ」 「あ、いや、女子にっていう話のほう……」 「取ってつけたようなフォローをどうもありがとうございます」 「……んだよ、可愛くねえな」 「はいはい、申し訳ありません」 「はいはいってあんた……」  流れるように喋っているうち、妙な緊張は消えていた。  残り数行となったデータの移行を、会話の合間に終わらせてしまう。エンターキーをカツンと叩き、上司の目の前だということをすっかり忘れた私は、腕を上に高く伸ばして大きく伸びをした。 「終わりました! ありがとうございました、遅くまで手伝っていただいて」 「はいはいご苦労さん」 「はいはいって……別にいいですけど」 「さっきあんたも言ってただろ」  こんなに砕けたやり取りは初めてだ。並んで帰路に就くときにも、この人を相手に今のような喋り方をしたことはない。しかも今は仕事中だ。  彼が先に破った私たちの暗黙のルールは、なし崩し的に壊れていく。壊れていいのかどうかを判断する気持ちも、残務を終えた解放感のせいで鈍ってしまっている。  馴れ馴れしい態度をあれだけ嫌がっていた彼だ。こういう喋り方をしたら気を悪くするだろうかと一抹の不安を覚えた直後、普段の薄い笑みとは完全に異なる横顔が覗く。  性質(たち)の悪さが滲み出たその笑みには見覚えがあった。給湯室でのやり取りのときに浮かべていたそれと、よく似ている。  緊張が背筋を走った。  こんなことしてて、大丈夫なのかな、私。  先に帰宅した先輩社員たちのそわそわした態度を思い出す。邪推とまでは呼べない、けれど私と沓澤代理がふたりきりでフロアに残ることに噂の素材を見つけたような浮ついた表情。それを目にしたときは、さすがに居心地が悪かった。  ……間違いだったのかもしれない。思ってもみない事態に巻き込まれて、丸め込まれて、それで私まで浮ついてしまうのはきっと正しくない。  走った不安は、珍しく間延びした沓澤代理の声に掻き消された。 「那須野。今日も持ってきてんのか、飴」 「あ、はい。出しましょうか」 「マジかよ、冗談で振ったのにそんな普通な感じで出てくんの? うわ、しかもまた三本出てきたウケる……」  大きな手のひらを口元に当てて笑いを堪える沓澤代理を薄く睨みつけると、彼は「悪い悪い」と、少しも悪いと思っていなそうな声で謝罪してきた。そしてノートパソコンの手前に並べた缶を順に眺め、うーん、と迷うような声をあげる。 「今日はパインと巨峰と柚子はちみつ、か。柚子はちみつ、いっつもあるけどレギュラーなの?」 「いえ、その……沓澤さん、まだ喉つらいかなって思って」 「え?」 「そ、そのためだけってわけじゃないですけど」 「……ふうん」  ぽろりと零れてしまった本音を慌てて取り繕いながら、書類を届けたときに食事の話を振ったことを思い出す。  あのとき、確かに壁を感じた。  余計なお世話、出すぎた真似。そういうものは彼にとって不要で、だから今の私の発言は多分まずい。  あのときはそれを察したから、それ以上食い下がらなかった。  すぐ引いて、余計なことを言ってしまったなと反省して……あのときと同じ薄ら寒さを感じる。でも。  今の沓澤代理は、なぜか楽しそうだ。  自分が妙な気を回しすぎているのではと訝しくなってくるくらいに楽しそうで、拍子抜けしてしまう。
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