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「えー、那須野さんが謝るところじゃないよ。むしろお前が那須野さんに謝りなさいよ、ほら」
「なんで?」
「なんでって、迷惑かけてるだろう!」
「別にかけてない」
「いやいや、思いっきりかけてるよ。こんなに可愛らしいお嬢さん、わけの分からない理由のために独り占めして……お前のせいでいろいろ不便しててかわいそうじゃないか。彼氏も作れないだろうに」
セクハラギリギリ……いや、ほぼアウトな会話を目の前で繰り広げられ、さすがに居た堪れなくなる。
社長が、沓澤代理ではなく私のお父さんのような発言を繰り出していることに、場違いにもうっかり笑ってしまいそうになった。
「僕はそんな話は聞いてないですね。どうですか、那須野さんは迷惑ですか?」
「えっ、あの、迷惑……と申しますか」
「いやいや、今ここではっきり『迷惑です』って那須野さんが言えるわけないでしょ、馬鹿なのお前?」
……社長、頑張って。ものすごく頼りにしています。
表面的には冷静ながらも、激しい火花が散って見えそうな舌戦だ。全力で社長を応援したくなったところで、社長は深い溜息を落とした。
「嫌がらせなんかは受けてないのかい? ……私の見間違いじゃなかったら、今朝もきなくさい場面があったみたいだけど」
虚を突かれ、私は息を呑んだ。
今朝の記憶が蘇る。特段気にすることでもないと無理に思い込んでいたことを思い出して、ずきりと胸が痛んだ。
果歩と同じ、総務課の先輩社員だった。見覚えはあった。
睨みつけるように私を見ていた社員ともうひとりの社員、ふたりの女性。思いきって目を向けたときには、視線を逸らされてしまった後だった。
彼女たちとは直接の面識がないから、多分そういうことなのだと思う。他にそんな目を向けられる理由がない。
「いいえ。大丈夫です」
絞り出した声は、無駄に掠れていた。
これではトラブルがあったと明言しているに等しい。頭を抱えたくなる。隣から沓澤代理の視線を感じたけれど、目を向ける気にはなれなかった。
「そうか。まぁなにかあったら全部、沓澤君のせいにすればいいと思うよ。君がつらい目に遭う必要はこれっぽっちもないからね」
「いえ、本当に大丈夫です。申し訳ありません、プライベートな話でお時間を割かせてしまって……」
「いやいや、私が呼び出したんだからいいんだ。あと本当に、なにかあったらすべて沓澤君のせいに」
「那須野。行くぞ」
社長の言葉の途中で、沓澤代理は唐突に立ち上がり、私の腕を引いた。
ここまであからさまな接触は初めてだ。堪らず息を呑み、きっとそれは私たちを凝視している社長にも伝わった。結局、退室する間際になんとか「失礼します」とだけ口に乗せ、そのまま社長室を後にする形になってしまった。
沓澤代理は、私の腕を掴んだきり放さない。歩く速度が速い。私も歩幅を広げ、急ぎ足で応じる。
社長室は四階、営業課を含めた営業部は三階にある。社員のみでの使用が制限されているエレベーターへ乗り込んだ沓澤代理は、なぜか二階のボタンを押した。
二階には備品倉庫と小会議室がふた部屋、それから総務部がある。怪訝に思っているうちにエレベーターは二階へ到着し、あれよあれよという間に、私は備品倉庫のドアの奥側へ押し込まれてしまった。
無人の備品倉庫は、初夏だというのにひんやりとしていた。
背筋が震える。震えた理由はもちろん、体感的な涼しさによるものだけではなかった。
「あの、ここ、なにか用ですか?」
「あんた嫌がらせ受けてんの?」
質問に質問を返され、ようやく合点がいった。
不躾に社長室を飛び出し、人気のないこの場所へ彼が立ち寄った、その理由は。
「いえ、今のところは大丈夫です」
「だったらさっきの『今朝の』って話はなんだ」
「……本当になんでもないんです。ただ、たまに面識がない他部署の人から変な視線を向けられることがあるくらいで。今朝のもそれです」
わざと濁した。
女性社員、それも複数の人物に睨みつけられたとはとても言えない。だいたいが、私の思い違いなのかもしれないのだから……けれど。
社長の言葉は意外だった。あの一部始終を見られていたのか。もしかしたら、私があの場を訪れるよりも前から、社長は彼女たちを見かけていたのかもしれなかった。各部署にも頻繁に顔を出す彼のことだ、あり得ない話ではない。
巡らせていた思考はしかし、苛立ったような沓澤代理の声に掻き消されてしまう。
「……あのさ。そういうの、もっと早く教えてくんねえかな」
「っ、す、すみません……」
「次、もし誰かになんかされたら絶対教えろ。だから」
――もう少し、今の関係を続けてほしい。
続いた声は一転して弱々しかった。苛立ちが削げ落ちた、気分でも悪いのかと心配になってくるほどの、らしくない声だった。
それ以上なにを考える間もなく、私はこくりと頷き返してしまう。
……断れない。
押しの弱さも、ここまで来ると笑えない。眼前に覗くネクタイの結び目をぼうっと見つめながら、私が断れない理由は一体なんだろう、と思う。
弱々しくも真剣な声で頼み込まれているから断りにくいだけなのか、上司からの命令に等しい頼みごとだから断れないのか、それ以外の理由がなにかあるのか。考えれば考えるほど、靄に揉まれるように分からなくなっていく。
「……戻るか」
「あ……はい」
「先に行ってくれ。少ししてから戻る」
煩雑に積まれたコピー用紙の束から香る真新しい紙の匂いに、鼻の奥がつんと痛む。
今はなにを考えても、新しい答えなんて出ない気がした。小さく頷き返した私は、先に備品倉庫を後にした。
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