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《2》押しに押される
私が勤める会社は、県内では名の知れた、老舗の菓子店兼土産物店の本社だ。
元々は県内外に置かれた十数店ほどの店舗経営が主軸だったところ、十年近く前に開始したインターネット通販で、ある商品が一躍殿堂入りした。それからは規模を大幅に拡大し、そちらの分野にも参入を果たしている。
私は、短大を卒業してここへ入社した。今年で四年目になる。
最初の二年は、郊外の店舗で販売スタッフとして勤めていた。それが昨年、営業課の事務枠に欠員が出たことで、突如本社に異動となったのだ。現場とは畑違いの営業事務として働き始め、ようやく一年と少しが経つ。
短大卒の店舗スタッフが入社数年で本社勤務に抜擢されるという前例が少なかった分、辞令を交付されたときは胃が痛かった。
とはいっても、本社には同期の果歩が入社当時から在籍していた。部署こそ違うものの、彼女にはかなりプレッシャーを和らげてもらった恩がある。今では仕事にもだいぶ慣れ、上司や同僚にも、過度な緊張を覚えることなく接せている。
「那須野さん。頼んでおいた申請書一式、どこまで進んでます?」
「あ、はい。もう仕上がっていまして、先ほど課長に承認をお願いしました」
「早いですね。ありがとう、助かります」
定時を十五分ほど過ぎた頃、帰り支度をしていると、沓澤課長代理に声をかけられた。
前日に頼まれていた仕事について問う彼の声は、良く言えば冷静沈着、やや尖った言い方をすれば平坦だ。
沓澤奏。二十代後半――確か二十九歳だと小耳に挟んでいる――とは思えない落ち着いた物腰と、部下や新人が相手であっても崩れない丁寧な口調が彼のトレードマークだ。そしてそれらこそ、今感じたばかりの平坦な印象に拍車をかけている。
異動直後こそ緊張を覚えた。けれど、一年と少し一緒に仕事をしてきてだいぶ慣れた。今では、彼の言葉遣いが雑だったら、そちらのほうがよほどなにかあったのかと身構えてしまう。
「では、お先に失礼します。お疲れ様でした」
「お疲れ様。気をつけて」
淡く微笑みながら定型の挨拶をした後、沓澤代理は、言葉の最後と同時にデスクへ視線を戻した。
社交辞令じみた薄い微笑みにだけはいまだに緊張を覚えてしまう。なまじ整った顔をしている分、どことなく怒っているように見えなくもないからだ。
私の異動とほぼ時を同じくして、営業課の課長代理に昇進を果たした彼は、前例のないスピードで出世している人物だ。
彼が人目を惹く理由の中で最も大きなものは、おそらくは昇進のスピードでも、あるいは整いすぎるほどに整ったルックスでもない。彼が現社長の息子であり、すでに次期社長としての準備を進めていると囁かれていることにある。
彼の入社は六年前。大学院を卒業して入社した後、店舗勤務を半年あまり経た彼は、かなり早い段階で頭角を現し始めた。
本社に配属されて以降は、トントン拍子で現在の課長代理にまでのし上がったそうで、そろそろ課長にと声がかかるのではという噂もある……と、果歩から聞いた。
果歩が在籍する総務課には、さまざまな噂話が、それも早い段階で舞い込んでくるらしい。沓澤代理に関連する情報もほとんど彼女から教わっている。
加えて、果歩は噂話が好きだ。知っといたほうがいいよ、という前置きとともに、特に本社勤務になって以降は社内外のさまざまな噂を伝えられていた。
沓澤代理の昇進については、当然といえば当然かもしれないけれど、社長の息子だからだとの声があらゆる方面から聞こえてくる。とはいえ、同じ部署内で仕事をしている私としては、それだけではこれほどの仕事や部下をまとめられるはずがないと思ってしまう。
私が営業事務に配属されてから、主だった業務はすべて沓澤代理から引き継いでいる。彼が前任でないにもかかわらず、だ。
沓澤代理は、課どころか営業部全体の業務のどれもを、ほぼすべて把握しているらしい。どうりで、部署内のスタッフで彼の陰口を叩く人が少ないわけだと、心から彼を尊敬したものだ。
もちろん、その尊敬は今も変わっていない。課長からの承認が必要な業務は、事前に沓澤代理に確認してもらう手筈になっているけれど、何度訂正やアドバイスをしてもらったか分からない。本当に頭が上がらないのだ。
……という経緯がある分、この翌日に起きたできごとに、私は動揺をさっぱり隠せなかった。
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