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女性の中では長身に分類されやすい私を優に見下ろせるほど、彼の背丈は高い。詰められた距離のせいで見上げる形となっていた私の頭とほぼ同じ高さまで、沓澤代理は顔を下げた。
あまりの近さに、私は反射的に身を引く。狭い給湯室の背後は、追い詰められたと表現しても差し支えないほどに空間がない。
「助けてやったお礼がほしい」
「っ、はい?」
「あいつ、あんたと別れてから三ヶ月ぐらい経つよな? まだあんなにしつこいの?」
……〝あんた〟ってなんだ。
謎の親近感を前にして、肩がびくりと震える。
いや、それよりも、どうして知っている?
プライベートに踏み込まれたのはこれが初めてだった。
仕事中の姿からは想像がつかない、かなり砕けた喋り方だ。上司と同じ顔をした別人なのでは、と馬鹿げた考えが脳裏を過ぎっていく。
「え、と……あの」
「ああ、無理に答えなくていい。実は俺、那須野さんに折り入って頼みがあるんだ」
聞き慣れない口調で喋りつつ、沓澤代理は徐々に距離を詰めてくる。
背後にはもう壁しかない。元々が控えめなサイズの食器棚とシンクしかない、狭苦しい給湯室だ。逃げ場があるはずもなく、私はこくりと喉を鳴らす。
上司とイケない展開、なんていう妄想は一切膨らまなかった。
果歩なら、この状況にあってもそういうことをノリノリで考えそうだ。けれど、残念ながら今の私の中では、色っぽい展開うんぬんよりも不可解さのほうが遥かに勝っている。
「な、なんでしょうか……ひっ」
食器棚に上半身をもたれさせた沓澤代理の、無駄に隙のない仕種に、思わず妙な声が出てしまう。
こ、これは……海外版の壁ドン。果歩が言っていたアレだ。
『通せんぼみたいな感じなんだけどさぁ、これがサマになってる人って超カッコいいよね~!』
雑誌を片手に持ち、該当写真を指差して熱く語る親友を思い出し、こんな状況だというのに笑ってしまいそうになる。
それってそんなにグッとくるかな、と声に出して告げたとき、果歩は『まぁこれを平然とキメてくれる日本人男性は希少かもね』となぜか落ち込んでいた。
ここにいた。平然とキメてきた日本人男性が。
サマになりすぎていて、うっかり声をあげて笑い出しそうになったところを無理やり我慢したから、おそらくこのときの私は相当に珍妙な顔をしていた。
妙に騒がしい脳内に翻弄されているうち、沓澤代理は大きく身を屈めて私の耳元に顔を寄せていた。現実逃避に等しい思考を巡らせていた私は、耳打ちに近い形で囁かれたバリトンボイスに、今度こそ全身を固まらせてしまう。
「那須野さん。しばらくの間だけでいいから、俺の恋人役を引き受けてもらいたい」
特段、なにかを期待していたわけではない。
色っぽい展開を期待していたわけでも、なんでも。
けれど。
「……は?」
告げられた言葉の意味が頭に入ってこない。
恥じらいも忘れてぽかんと目を見開いた私を、沓澤代理は薄い笑みを浮かべて眺めている。
「真面目、実直、それと派手なことが大して好きじゃない。だいたい合ってるな?」
「は、はあ」
目を細めた薄い微笑みには見覚えがあった。
見覚えどころか、普段から見慣れている彼の標準的な微笑みだ。それが本当に単なる営業スマイルだったのだと、私は心底思い知る。
イケメンに壁ドンされたからといって、ドキドキするばかりではないのだな。いや、ドキドキはしているけれど、このドキドキはその手のドキドキではない。ときめきなんて露ほどもない、ただ単に心臓に悪いだけのドキドキだ。
……それにしても、よく見ているものだと感心してしまう。
真面目とか実直とか、自覚はない。よく分からないというのが本音だ。でも、派手なことは確かにあまり好きではない。
地味な素顔を飾るためにメイクは基本きっちりするし、オフィスカジュアルとはいっても顔に合わせて服装を決めるから、そこそこ華やかな印象を与えがちだという自覚はある。けれど、不意にそれを窮屈に感じることもある。
息が詰まる感じ。そういうものも、すでにバレているのか。会社でしか顔を合わせないこの人に。
伊達に役職など務めていない、ということか。
わずかであろうと、表に出した覚えのない内面を見破られていることに、得体の知れない焦燥を覚える。そんな私の内心に気づいているのかいないのか――いや、多分気づいていないだろうけれど、沓澤代理は滔々と抑揚のない声で続ける。
「あんたなら、俺が隣に立ってても変な気は起こさなそうだなって思ってた。同じ部署ってのも都合がいい」
「つ、都合?」
「うん、都合。まぁ彼氏いるっぽかったから自重してたけど、別れてすぐ他の男とってこともなさそうだったし、あんたに決めた」
言葉の最後に被せるように薄い笑みが砕け、満面の笑みを向けられる。その変貌ぶりに見惚れ、私は間抜けにも再びぽかんと口を開けてしまう。
……いや、見惚れている場合ではない。どう考えても丸め込まれそうになっている。気をしっかり持たねば。
「ち、ちょっと待ってください。それって私になにかメリットあります?」
なんとかひねり出した反論に、沓澤代理は浮かべていた笑みを瞬時に引っ込めた。それだけでは飽き足らず、露骨な舌打ちまでしてきた。
やはり丸め込もうとしていたらしい。
危なかった。あっさり罠にかかるところだった。
頼れる上司でしかなかった人物を相手に、初めて真っ黒なものを見出した。
こういう人だったとは……ショックだ。仕事上何度も話してきたし、いずれはこの人がうちの会社を引っ張っていくんだろうなぁと呑気に考えていた、そんな過去の自分がもはや憎い。
「恩は売ったつもりでいたけどな。まだ注文あるわけ?」
「は?」
「さっき。困ってたっぽいとこ、わざわざ間に入ってまで助けてやっただろ」
さも当然とばかりの上から目線がつらい。
別に頼んでません、と反論しかけた口を意識的に噤む。余計なことを言ったら、逆に揚げ足を取られそうな気がしたからだ。
……勝手に出てきておいてなんなんだ、この男。
メリットどころか、数多の女性陣から睨まれかねないというデメリットしかない頼みごとを、率先して引き受ける人間がいるだろうか。
いくら上司が相手だからといっても、これはきっぱりと断らなければ駄目だ。そう思って口を開こうとした、瞬間。
――ブー、ブー、とバッグの中からバイブ音がした。
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