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狭い給湯室の中、その音は無駄によく響いた。固まった首を無理に動かし、バッグと沓澤代理を順に眺める。沓澤代理は「どうぞ」と顎で私のバッグを示している。私のスマホだとしっかりバレている。
ここからごまかすことはまず不可能な上に、かかってきたのは電話のようで、バイブ音はなかなか止まらない。仕方なく、私はバッグに手を突っ込んだ。
ポケットから端末を取り出し、表示を見て、思わず天を仰いだ。
……小山雄平。頼むから、今だけは空気を読んでいただきたかった。
ポーカーフェイスは得意ではない。分かりやすく天井を見上げた私に、真正面から私を観察している沓澤代理が気づかないはずはない。
にやりといかにも悪そうな笑みを浮かべた彼は、端末を手に硬直したきりの私から、すっとそれを取り上げてしまう。
「ちょっと、なにするんですか!?」
「いいから貸せ。どうせさっきの奴だろ」
ぐっと息が詰まる。ここですぐ「違います」とはったりをかませない自分が残念でならない。
毅然とした態度を取りたいときほど動揺が先走る。しかも、今の相手は普段とは顔色――いや、もはや人格を変えた上司だ。臨機応変、柔軟、どちらの対応も私には到底無理だ。
返してくださいって、ちゃんと言わないと。
せめて声をあげなければと口を開きかけた矢先、沓澤代理は通話に応じてしまった。
無論、私と目を合わせたままで。
「もしもし?」
……消え去りたい。
なんだ、この微妙な修羅場感。
短い沈黙の後、沓澤代理は通話を終わらせた。他人の端末だというのに、操作が異様にスムーズなのはどうしてか。そんなことを考えていると、結局それ以上通話で声をあげなかった沓澤代理は、私の手にスマホを押し戻してきた。
最初のひと言以外、沓澤代理はなにも喋っていない。ということは、雄平は、私宛ての電話に男性が応じたために、動揺してすぐに通話を切ったのだ。
その相手が沓澤代理だと、雄平は気づいただろうか。先ほどまで雄平自身も居合わせた給湯室、私と沓澤代理だけがこの場に残ったところを見ているのだから、想像はついていると思いたい。いや、それよりも。
浮気ゆえの別れ話だったのかと、雄平に誤解されたかもしれない。
それではあまりにつらすぎる。冗談半分の暴言に辟易して、ようやく別れの覚悟を決めて、なのにすべてが私の不実によるものだと思われてしまうなんて。
「……困ります」
思った以上に冷えた声が出た。
落ち着き払った自分の声を、自分こそが意外に感じるくらいの。
「やめてください。浮気が理由で別れを切り出してきたのかって思われたら、私」
「いいだろ、別に。今日から俺があんたの彼氏役なんだ」
にべもなく言い返され、心が折れそうになる。
頼れる上司への好感度が見る間に下がっていく。仕事は真面目、社長の息子だという事実を鼻にかけない。すごく立派な人だと、純粋に思っていたのに。
「それ、もう決定なんですか」
「決定だよ。ああ、メリットがほしいんだったな。なんか考えとくよ」
文句を零したかったものの、声をあげることさえ億劫だった。頭がうまく回らず、ぼうっと立ち尽くしていると、沓澤代理は再び私の手からスマホを取り上げた。
画面を滑る指はやはり滑らかだ。勝手にいじらないでください、と言い終わった途端に返された。
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