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画面を覗くと、沓澤代理の名前と連絡先が勝手に登録されている。
すごく困る。スマホを持つ指に力がこもった、そのとき。
「困ってたのは本当なんだろ」
「……は?」
「さっきの奴。相当参った顔してたよ、あんた」
不機嫌をそのまま顔に出して見上げた先で、沓澤代理は一転して思慮深そうな目で私を見下ろしていた。
虚を突かれ、私は返事に詰まる。その隙をかいくぐられてしまったのか、沓澤代理はぐっと身を屈め、顔を覗き込んでくる。
細められた双眸は、見慣れた薄い笑みとは違い、心配そうに揺れて見えた。単にこの状況で私がそう思いたいからそう見えただけかもしれないけれど、そんなことより近い。近すぎる。困るくらい近い。
不自然に見つめ合いながら、唐突に、終業時刻がとっくに過ぎていることを思い出した。「帰ります」と声を張り上げ、私は給湯室の出入り口へ一気に足を進める。
沓澤代理が通せんぼしているせいで絶対にくぐり抜けられないだろうと、ついさっきまで確かに思っていたはずなのに、想像よりずっと簡単に私はそこを抜けられてしまった。
この微妙な空間から、すぐさま立ち去れる位置に立っている。それが意外でもあり不思議でもあり、私は狐につままれたような気分になる。それ以上その感覚に惑わされたくなくて、振り返らずに立ち去ろうとしたとき、背中越しに声をかけられた。
「また言い寄られたら助けてやる。メリットの話、それでどうだ?」
「結構です。別に、そのぐらい自分で」
「へぇ、押しに弱い那須野さんが? 自分で? 今さっきあのザマだった癖に?」
口調は優しい。呼び方も、普段と同じ〝那須野さん〟に戻っている。
しかし、言っていることが相当にえげつない。今度は悔しさのせいで言葉に詰まってしまう。
「任せとけ。悪いようにはしない」
いつの間にか、彼は私のすぐ後ろまで足を進めていたらしい。
背を向けたきりの私の耳元で、沓澤代理はそう囁き、私になにかを握らせた。かさりと乾いた音が鼓膜を掠め、私はそれが小さく畳まれた紙切れだと気づく。
手元へ視線を落としたと同時に、沓澤代理は私を追い越し、その場を去ってしまった。
ひらひらと手を振って去っていく上司の背中を呆然と見送る。後には静寂が残った。終業時間後の無人の給湯室。他人に呼び出されて、それなのに私だけが最後に残って、ものすごく馬鹿らしく思えてくる。
手元のメモに改めて視線を向けると、そこには沓澤代理のフルネームと十一桁の電話番号、それから英数字の羅列――メールアドレスが記載されていた。業務中に見慣れている彼の字だ。
……人の端末に同じ情報を直接入力しておいて、どうしてわざわざ。
念には念を、という意味だろうか。あるいは、たまたま端末に触れられる状況ができただけなのかもしれない。
事前にこれを用意していた以上、最初から最後まで完全に狙ってやっていたということか。雄平からの詰問も、そこに割って入ったことも、それをネタに私に無茶な依頼をしてきたことも、全部。
「……勘弁してくださいよ……」
私以外誰もいなくなった給湯室の電気を消しながら、思わず声が出た。自分でも引くくらい弱りきった声だった。
断れなかった。溜息をついたところで、状況はどうあっても変わらない。少なくとも今日はもうなにもできない。
憂鬱を引きずり、私は給湯室を後にする。
結局、私は流されるようにして、沓澤代理の〝恋人役〟なる謎のポジションを引き受ける羽目になってしまった。
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