だから言ったのに……

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「だから言ったのに……」  そう言うと,(れん)は力なく倒れる陽葵(ひまり)の身体を力いっぱい抱きしめた。  昼間の陽がこの世とすれば、夜の闇はあの世を現す。そんなこの世とあの世が交錯するこの瞬間,陽葵は薄れゆく意識のなかで黙って蓮の言葉を聞いていた。 「だから言ったのに……」  蓮の腕が陽葵の身体が倒れるのを許さないといっているかのように,力強く抱き寄せた。真っ赤に灼けた夕陽が黒と紺色が交じり合う星空にゆっくりと呑み込まれようとしているのが瞳に写り,擦れた視界をいっぱいにした。 「だから言ったのに……」  蓮の頬を熱い涙が伝い,まだ温もりのある陽葵の肌に触れた。全身から力が抜けて,意識も薄れてゆくこの瞬間,この世とあの世が入れ替わるこの狭間の一瞬に陽葵は蓮の顔を思い出していた。 『私……死んじゃうの……? どうして,こんなことになってるの……? お母さん……お父さん……。どこにいるの……? お願い……』  蓮の腕に力が入った。意識をなくすことを許さないかのように陽葵の骨が軋んで悲鳴にも似た嫌な音を立てた。川の音が微かにしたが,それ以上に骨の軋む音が響き渡った。 「だから言ったのに……俺を無視すんなよ……」  陽葵には,いつどこでこの男に会ったのかまったく憶えがなかった。ただわかっているのが,橋を渡ろうと歩いていると,突然この男が目の前に現れた瞬間,大きなナイフがお腹に刺さったということだけだった。痛みは感じなかったが,火傷をしたかのような鋭い熱さが身体を包み込んだ。 『だれ……あんたなんか知らない……だれなの……』 「だから言ったのに……俺はお前に警告した。俺を無視したらひどい目に遭うって……」 『だれ……知らない……なんなの……』  薄れゆく意識のなかで,真っ赤な夕陽がいよいよ深い濃紺の夜空に呑み込まれようとしていた。身体から力が抜けてゆくのを感じながら,お腹に刺さったナイフが蓮によってさらに深く押し込められた。 「だから言ったのに……俺を無視してんじゃねぇよ……」 『だれか……たすけて……』  いよいよ夕陽が消えようとしたとき,闇に呑み込まれようとする蓮が涙を流しながら陽葵の耳元で嬉しそうに囁いた。 「で……お前……だれだよ……」  川の音がすべてを掻き消すと,すっかり夕陽は姿を消し,濁った藍色の暗闇がすべてを呑み込んだ。
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