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やさしい夜に
「好きなんて、うそ」
昼間、彼が嬉しそうに彼女と笑い合っているのを見て、そう言おうと決めていた。
少しだけ声色を変えて、目も合わせずに冷たくそう言えば、彼——隆一は訳がわからない、とでも言うように眉を顰めた。
「うそって、どういうことだよ」
「だから、うそ。好きじゃないの」
できるだけ笑顔を装って、泣かないようにする。無垢な笑みではなくて、蠱惑的な酷い女の顔。口元を釣り上げる度に胸が痛むけれど、今は気付かないフリだ。彼と彼女の為。そして、自分の為。
そう、言おうときめたのだから。
「わけがわからない、待てよ美月」
それじゃ、と立ち去ろうとしたわたしの腕を彼は掴む。あーあ、泣かないと決めたのに、どうしても目が涙でいっぱいになってしまう。
今声を出したら、きっと、震えてしまうから。俯いて、ただ首を横に振った。振り返ることもなく、わたしは、彼の手をやんわりと解いて、駆けて行った。
隆一とはいわゆる会社の同期だった。お互い部署は違うけれど、内定者の集いから仲良くなって、仕事の悩みを共有したり、切磋琢磨しあう仲間だった。それは、この夏までのこと。夏にわたしは隆一から告白された。初めはびっくりしたけれど、一目見たときから格好いいと思っていたし、その上腹を割ってなんでも喋れる隆一に、わたしも恋をしていたのだとすぐに自覚した。
わたしも好きです、と隆一に答えた。そして、二人は結ばれてめでたくハッピーエンド、になるはずだった。
それなのに。
「君はバカか」
ぐすぐすと鼻を汚くすする女に、後ろから声が飛んで来た。
振り返らずに、わたしは、「酷いです、センパイ」と威嚇するように返事をする。
「あれほど俺の言うことを聞けと言っていたのに」
そう言いながらも電話一本で、駆け付けてくれるあたり、彼は優しい人だ。
直属の上司でもないのに、それどころか、営業所も別だというのに、仕事終わりに車を飛ばして、みなとみらいまで来てくれたらしい。わたしと隆一は横浜支社、先輩は大手町の本社に勤めている。
彼は大学のゼミの先輩で、わたしが今の会社に入社するきっかけとなったひとだ。学部生のころから色々と気にかけてもらって——放っておくとなにをしでかすかわからない、とかそういうわけのわからない理由だった——先輩が卒業してからしばらく疎遠になっていたが、就活の際にOB訪問をお願いしたのだ。それから、縁あってなんだかんだとまた世話を焼いてくれている。
「来い」
海の見える堤防、先輩に背を向けたままのわたしの腕を彼が強く引き、道路脇に停めてあった車の中へと引っ張り込む。革張りの座席に放り出されるや否や、彼はここがみなとみらいの、それも夜景の望める観光地のど真ん中だということも気にせず、わたしを背凭れに押し付けた。華麗な仕草で両手が彼のそれと絡み合う。ぎゅっと握りしめられ、シートに縫い付けるように捕らえられ、身動きがとれない。
「ちょっと、せんぱ……」
刹那、彼の黒い瞳がわたしの瞳を捉えた。
純度の高い黒曜石の中に、きらりと淡い光が宿っている。あまりに美しく、そして、あまりに切なく、わたしをまっすぐに、まっすぐすぎるほどに貫いたその瞳の中に、そのやさしく目映い光の中に、わたしの居場所があった。
びっくりして涙が止まったその瞬間、唇に温かな感触が訪れる。一瞬離れた隙に、彼は口元を釣り上げた。そして、優しく目元を緩めたあと、再び口づけを再開した。触れ合うだけのものから、次第に濃く、深くなっていく。
「かずま、せんぱ……」
「だから言ったろう、俺の方がいい男だって」
隆一に告白されて、付き合いが始まったばかりのころ、たしかに先輩から言われたことがある。その頃すでにわたしは、告白に浮かれる脳内お花畑のハッピーガールなんかではなくて、隆一が彼と同じ部署の女の子と楽しく笑っていることに疑いのまなざしを向けてしまうような醜い女で、沈んでいるところを支社にたまたま来た先輩に見られてしまったのだ。
好きという気持ちは厄介で、それまで普通に接してきた隆一とどう接したらよいかわからなくなってた。気の置けない仲なんて幻想で、隆一にはいつも笑顔でそばにいるあの子がいることに気がついてしまってから、どんどん、距離ができた。そして……。
離れた唇から、つう、と銀の糸が伝う。言葉を紡ぐこともままならず、ただ和真先輩を見上げていると、彼はわたしの名前を呼んだ。
「美月」
彼の低い声が脳髄を揺さぶって、くらくらする。
「俺を見ろ」
海外ドラマみたいな台詞だ。だけど、先輩の彫りの深い整った顔立ちには、正直とても似合う。爽やかに整えられた短髪に、聡明な額があらわになる。鼻すじは通っていて、眉と目の間は狭くて、男のくせに睫毛が長い。
切れ長の、黒い瞳がわたしを見つめている。いつもの強気などちらかというと近寄りがたい厳しい目つきではなくて、どこか切ない色を孕んでいた。
「考えるな。俺が忘れさせてやる」
鼻すじが頬をなぞる。彼の逞しい指が、耳を首を、肩を撫でていく。
「……忘れてた」
わたしは、気がつけば彼の唇を探し求めていた。おあずけとでも言うように、ふっと逃げようとした彼の顔が、止まった。
「貴方にキスされた時、あの人のことなんて、忘れてたの」
薄情だと人は言うかもしれない。けれど、本当のことだ。
ずっとずっと胸の内にこびりついていた男女の影が、先輩の唇が触れた瞬間、すっと消え去っていた。あの一瞬ですべつを奪い、そしつ、わたしが欲しかったものをすべて、あのひとときで与えてくれた。
彼は嬉しそうに笑みを浮かべると、唇のあわいに優しい口付けを落として、わたしの頭を撫でた。
「腹が減ったな」
「ぺこぺこです、お昼から、なにも食べてないから」
「またお前はそうやって……。本当に放っておけないやつだな」
そういう和真先輩の声は、呆れを含んでいるものの、どこか優しい。
わたしの頬を撫でる手はあたたかく、思わず猫みたいに擦りよりたくなってしまう。彼は、ふっと眦を緩めると、ふたたびわたしを見つめた。
「今日は、とびきりのディナーでも食べよう」
救いの手に、わたしは自分の手を重ねる。
すべて、全て、忘れてしまえたらいい。そして、一からやり直そう。
わたしは微笑む先輩に、こっくり頷いた。思いがけず、またひとつ涙がこぼれたが、もう、先ほどよりかは悲しくなんてなかった。
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