温泉宿

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温泉宿

 やっぱり、旅はいいですよね。常に神経をすり減らす毎日を送っていると、ふっとどこか遠くに行きたくなる時ってありますもんねえ。ええ、私もストレスが溜まってくると、ふらっと一人旅に出かけることが、よくあるんですよ。  この間も、ちょっと鄙びた温泉宿に行ってきました。ネットで色々評判とか調べてみて、温泉かけ流しでサービスの良さそうな所という、まあ、ごくありふれた方法で見つけた温泉旅館だったんですが、今回のはまさに掘り出し物でしたよ。ええ、色んな意味で貴重な体験をさせてもらいました。  なるべく静かな所に行きたかったので、今回は少し不便で人の少なそうな温泉地を選びました。新幹線の駅からローカル線に乗り換えた後、さらに一時間一本も来ないディーゼルカーに乗り換えるんです。ほんと、移動時間だけで考えれば、狭い日本もまだまだ広いもんですね。  道中特にトラブルも無く、緑豊かな山間の温泉地にある一軒の旅館の前で、私は送迎バスを降りました。こぢんまりとした温泉街の中のその旅館は、小さいながらも趣のある建物で、これは何となく期待できそうだなと思いました。    チェックインの手続きを済ませると、愛想の良い女中さんが部屋に案内してくれました。六畳の部屋は一人旅には充分で、掃除も綺麗に行き届いていました。女中さんは私にお茶を一杯いれると、「すぐに女将がご挨拶に参りますので、どうぞそのままお待ちください」と言って退出しました。  実は、この“女将”が今回の楽しみの一つだったのです。ネット上で色々評判を調べる中で、ここの女将は凄い美人だという情報が散見されていたので、そんな美人なら是非一度見てみたいと思ったのも、この宿にした理由の一つでした。畳の上でくつろぎながら、私は期待感を持って待っておりました。  お茶を飲みながら十分くらい待った頃でしょうか。「失礼します」という声が聞こえ、入り口の襖が静かに開きました。  その瞬間、私の目が大きく見開かれました。  女優さんでもこんなに美しい人は、そういないでしょう。うりざね顔の輪郭の中に繊細な曲線で描かれた目鼻が絶妙のバランスで配置されています。紫を基調とした上品な色使いの和服に身を包み、少し派手目ながら上手に施された化粧は、彼女の美しさを最大限に際立たせています。 (これがあの評判の美人女将か……)  思わず見とれてしまいました。少しハスキーな艶気のある声で、挨拶が始まりましたが、もう何も耳に入らない私は、ただ茫然と聞き流していました。  ひと通り挨拶と説明を終えた後、彼女が切り出しました。 「あと、お客様。ご到着早々に大変お手数ですが、お部屋の方をお替えさせて頂いても宜しいでしょうか」 「部屋を替わるんですか?」 「はい。実は、今日お泊りの予定だった三名の団体様がキャンセルになってしまいまして。一番広いお部屋が空いたものですから、是非そちらをお使い頂きたいんです。勿論料金は今のままで結構でございます」  同じ料金で良い部屋に泊まれるなら、断る理由はありません。勿論私は応諾し、“萩の間”という札が掛かった十畳敷きの大きな部屋に通されました。部屋からの眺めもこちらの方が断然良く、美人女将のご尊顔も拝むことが出来、私はなんだか運が上向いて来たような気分になりました。  食事が終わって暫く間をおいた後、私は早速露天風呂に行ってみました。女将や女中の口ぶりから察するに、どうやら今晩は私が唯一の客らしいのです。もう誰にも遠慮することは無いだろうと思って、私は檜風呂の中で思い切り手足を伸ばしてたまった疲れを癒しておりました。  と、そこへ脱衣場の方から「失礼します」という声が聞こえました。 (あれは、女将の声か?)  何と返事してよいものか迷っているうちに、風呂場の扉がカラカラと開いて、浴衣姿の女将が入って来たのです。  いくら女将とは言え、いきなり男湯に入って来られて、私もどぎまぎしてしまい、とりあえず「あ、どうも……」とか間の抜けた返事をしてしまいました。 「お湯加減、如何ですか」  湯けむりの向こうで微笑みながら女将が尋ねます。 「はい、結構です」  やっとの思いで私は答えました。 「何よりですわ。もし宜しければ、御背中をお流し致します」  思わず「えっ?」と声を上げてしまいました。こんな綺麗な人に背中を流してもらえるなんて……妙な期待をしながら「じゃ、お願いします」と勢い込んで応えてしまいました。  湯舟から上がった私の背中を、手ぬぐいを使って、彼女は優しく流してくれました。ときおり、白魚のような指が背中の皮膚に直に触れると、そのたびに、妖しい快感が走ります。 「ここは御覧のとおり何もない所でしょう?毎日が死にそうになるくらい退屈なんです……」  私の耳元に唇を近づけながら、語り掛けてきます。 「本当、退屈で死にそう。だから誰かに救ってほしい……救ってくださいますか?」  唇の方も、ときおり私の耳たぶに触れてきます。私の心臓の鼓動は自分でも聴きとれそうなくらい高まっていました。そのまま思わず「はい」と答えていました。  私の返事を聞いた彼女は湯けむりの向こうでにっこりと微笑みました。そして「では後程、お邪魔致します……」と言うと、ゆっくりと立ち上がって風呂場を出て行きました。  期待と興奮に包まれながら部屋の方で待っておりますと、真夜中過ぎた頃でしょうか。 「失礼致します」  果たして女将の声が部屋の入口の方から聞こえてきました。  襖を開けると、そこには艶やかな浴衣姿の女将が嫣然と微笑んでおりました。部屋に入ると、まずきちんと三つ指をついて「宜しくお願い致します」とお辞儀をしました。  それからは、もう夢のような時間でしたね。いかにも清楚で慎ましいそれまでの所作とは打って変わって、まさに豹変という感じでした。電気も消さずに、いきなり私の唇にむしゃぶりついてきたかと思うと、あっという間に帯を解いて全裸になりました。その純白の裸身は、煌々と電気に照らされて輝くばかりです。早くも私の胸の下に仰臥した彼女は、のっけから誰憚ることなく嬌声を上げ始め、激しく腰を使いながら、あらん限りの声で絶叫しました。今日は他の泊り客はいないようでしたが、それでも住み込みの従業員だっているでしょうに、誰もいないかのごとく叫んでいます。灯りの下で大胆に蠢く白い肉体の動きに、私は時の経つのを忘れました。  ただ、少し気になることが有ったんです。ときおり気が付くと、私の胸の下で仰臥する彼女が妙に嬉しそうな顔で私の顔を見上げているのです。勿論、行為の最中ですから愉悦の表情は当然かもしれませんが、その顔は愉悦や快楽と言うよりは、“楽しそう”というか……口角が妙に上がって、人が面白そうに笑っている時のような顔でした。鼻の穴を膨らまして興奮している私のことを馬鹿にしてるんだろうか。一寸気にはなりましたが、それも束の間、私は目の前の快楽にどっぷりと浸っておりました。  翌朝、朝食をすませた私は、もう一風呂浴びてからチェックアウトしました。出立前にもう一度顔を見たいなと思いながらフロントで会計を済ませていると、果たして女将が挨拶に現れました。 「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」  何事もなかったように尋ねる女将に、こちらも何気なく答えます。 「はい、おかげさまで大変よく眠れました」 「それは良かったです。当館の“サービス”はお気に召されましたでしょうか」  帰り客にかける普通の言葉を掛けながら、女将が悪戯っぽく笑みを浮かべました。 「大変“満足“してます」  こちらもにやりとしながら答えました。 「そう仰って頂けると嬉しいです。どうも有難うございます。是非、またのお越しをお待ちしております」  数少ない従業員と一緒に見送る女将に向って、私はマイクロバスの中からいつまでも手を振って別れを惜しんでいました。  駅に到着すると、待合室のベンチに腰を下ろしました。切符は買ってあるし、次の列車までは、まだ時間があります。時間つぶしにとスマホを取り出した途端、一人の駅員が近づいてきました。 「お客さん、今度の上りに乗るんですか?」 「はい」 「すいません。たった今連絡があって、列車がイノシシとぶつかったらしく、到着が遅れるらしいんですよ。当駅には13時15分頃到着予定です。大丈夫ですか」 「……1時15分ですか」  あと30分以上ここで待つことになりそうですが、それでも乗り継ぎの新幹線の時間には、まだ十分に間に合います。 「大丈夫ですよ」 「ああ、良かった。お客さん、ここには観光ですか」  人懐こい笑顔で駅員が話しかけてきました。間があいてしまった私を気遣ってくれたのでしょう。 「ええ。ちょっと温泉に」 「お泊りはK旅館ですか」 「ええ。ネットで見たら評判が良かったから」 「あそこの女将、美人でしょ」 「ええ、素晴らしい美人ですよね」  思わず大きく頷いてしまいました。 「美人で、サービスも良くて……ねえ?」  駅員がにやにやしながら私の目を覗き込みました。何やらこの人は私がどんな“サービス”を受けたか既に知っているような気がしました。もしかしたら地元では有名な事なのかもしれないと思いました。 「ええ……確かにそうでした」  妙な照れ笑いを浮かべてしまいました。 「あはは……まあ、それは何よりでした」  みなまで言わなくても良いですよ、という風情で駅員が笑います。 「あれだけ美人で宿のサービスも良いから評判もいいんでしょうね」  私が返した言葉に、駅員の笑顔が消え、急に白けた顔になりました。 「まあ、確かに“ネットでの”評判は良いんでしょうけど……」  何やら意味ありげな言い方です。 「と言いますと?」 「ここだけの話、地元での評判は最悪ですよ……」  そう言って、駅員は話を始めました。 「あの女将はあのとおり美人ですが、異常なくらい淫蕩な女でね。それも単なる男好きだけじゃなくて、自分にはこんな力があるんだということを誇示する為に男を誘惑するような、そんな性格なんです。  そして、もっと性質の悪いことに、他人の幸せをぶち壊すことが大好きなんです。イケメンは勿論、不細工であっても、いや貴方のことじゃないですよ、誰か他の女の亭主や恋人であれば、すぐに誘惑するんです。そして寝取られた女達にわざわざその事実を告げて、目の前で悔し泣きをするのを見るのが何よりの楽しみという女なのです。実際、あの女のせいで別れてしまったカップルや、夫婦もいくつもありますからね。だからここでは誰も良く思っていないんですが、それにも関わらずご本人は全然気にせず、堂々とここで何年も商売してるんですから、まあ、たいした神経ですよね。  そんな中、もう三年ぐらい前の話ですが、あの旅館の一人の女中さん……みっちゃんとしましょうか。明るくてよく働く評判のいい子だったんですが、そのみっちゃんがあそこの花板と恋仲になりましてね。お互いに強く惹かれあうものがあったんでしょう、交際は順調に進んで、婚約することになりました。花板の方も真面目な仕事ぶりと誠実な人柄で周囲の評判も上々だったし、お似合いのカップルだとみんな思ったんです。  ところが……もうご想像がついてるかと思いますが、そう、あの女将がこれを見過ごす筈が有りません。婚約が公けになってから暫くして、男の方を誘惑し、あっさりと関係を持ってしまいました。勿論あの美貌と色気には抗いがたいものがありますが、さらに雇用主である自分の立場を利用して、いわばパワハラ同然に男をものにしたという噂もあるくらいです。そして、例によって、その事実をみっちゃんにペラペラ話した。立ち聞きした従業員の話では、男が自分とどんな体位で交わったとか、どんな声をあげたかまで微に入り細に入り聞かせていたそうです……  結局、婚約は破棄となり、二人は別れてしまいました。まあ、そうなりますよね。そして男の方は旅館を辞め、逃げるようにこの町を離れて行きました。  そして、みっちゃんはどうなったかと言うと、それから間もなくあの旅館で首を吊ってしまったんです。  早まったことをしたと言えばそうなんですが、まあ、その気持ちもわかりますよねえ。みんな驚くと同時に気の毒がって、涙をこぼす人もいましたよ。とうとうあの女将のせいで人死にが出たわけです。彼女が歩いていると、すれ違いざまに“人殺し!”と罵声を浴びせる人もいましたね。まあ、ご本人は薄ら笑いを浮かべて聞き流してましたけど。  ところが、それから暫くして妙な噂が流れ始めました。あの旅館にみっちゃんの幽霊が出るというんです。  彼女が首を吊ったのは、あの旅館の一番良い客室でした。女将への恨みから、最後にあの旅館に最大の損害を与えてやろうという意図だったんでしょうけど、その部屋で、毎晩みっちゃんが死んだ時刻になると、首を吊った状態の彼女が天井からじいっとこちらを見てるんだそうです。暫くすると消えるらしいですが、必ず毎晩出るんです。実際、あの部屋に泊まったお客からそういう苦情も相次いだらしく、ネットに書き込まれたこともあったみたいですから、どうも本当らしいですよ。そういう事情で、今ではその部屋は使われなくなってるみたいです。まあ、みっちゃんも一矢を報いたってとこですかねえ……あ、ぼちぼち上りが来るみたいですね。どうも長々と失礼しました。どうぞお気をつけて」  駅員は準備の為にそそくさと去っていきました。  ディーゼルカーにのんびりと揺られながら、私は今回の旅をぼんやりと振り返っていました。折角良い思いが出来たと思ったら最後に変な話を聞かされて、気分は一気に憂鬱なものになってしまいました。  駅員曰く、みっちゃんという女中さんが首を吊ったのは、あの旅館の“一番良い”客室だった……私が後から通されたあの広い部屋のことか。こぢんまりとした館内をざっと歩いてみた限り、確かにあそこより大きな部屋は無かった……そして、そこで私は女将から夜中に”サービス“を受けていたのです。  あの時天井からその女中の幽霊がぶら下がって、私達の痴態をじっと見下ろしていたのじゃないか……裸になった自分の背中に彼女の冷たい視線が注がれていたのかと想像すると、私は思わず身震いしました。  そして更に考えていると、私の中で色んな事がつながり始めました。  もし、駅員の言う事が本当なら、萩の間は使われていない筈です。でも女将は、そこに泊まる予定だった客がキャンセルになったので私に割り当てた、という言い方をしていました。なぜ、嘘を吐いてまでわざわざ私を萩の間に移したのでしょう?別に元の部屋でも“やること”は一緒の筈ですしね。  普段は使っていない萩の間には、毎晩女中さんの幽霊が出る。あの女将は私のような男の一人旅の客が来ると、最初の挨拶の時に品定めをして、その男がお眼鏡にかなったら、わざとあの部屋に移して事に及ぶのじゃないだろうか。  何の為に?それは、女中さんの幽霊にあらん限りの嬌態を見せつける為にです。  だから灯りも消さず、誰憚ることなく思い切り嬌声を上げていたんです。布団に仰向けになった女将は、私の顔を見て笑ってたんじゃない。彼女は天井からこちらを見ている女中の顔を見上げて嘲笑っていたんです。“私は、あんたの男もこうして寝取ってやったのよ。あんたの男もこんな風に無我夢中で腰を振ってたのよ。あんたは、ずっとそこで指くわえて見てなさいよ……” あの女将は嬌声と共に、そんな言葉を発していたんじゃないかと思うんです……。  まったく、幽霊よりも生きてる人間の方が余程怖い、なんて言いますけど、まさにそのとおりですよね。  えっ?もう二度とそこには行く気になれないだろう?  いやいや、何言ってんですか。もう次の予約を入れましたよ。来月の三連休に二泊して来ます。  何故って、あんないい女がただでやらせてくれるんですよ。行かない手は無いでしょう。それに、あの最中に後ろから誰かに見られてると思うと、私は妙にゾクゾクするんですよ。ましてや幽霊に見られながらなんて、滅多に無いことじゃないですか。もう考えただけでも興奮してきちゃいますよ。ねえ?……ひひひ。   [了]
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