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私は広岡君の絵を覗き込む。
「これは……お前の友達の藤田の絵だな」
伊沼先生は舞が描いた絵に視線を移すので、私もそちらを見る。キャンバスのど真ん中に少し小さめの果物が並んでいる。
「アイツは少し几帳面というか、あまり冒険しないというか……はみ出ることが苦手だな。だから中心に置いて余白とのバランスを取ろうとする」
先生の言う通りだった、舞は几帳面で少し慎重すぎるところがある。新作を試すときは必ずSNSの口コミを確認してから、あまり評価が良くないと気になっているものでも試すのをやめてしまうことがある。
「そしてこれが、相田の絵。のびのびとしていて、光の描き方がいいな」
私は三枚目の、相田ちゃんが描いた絵を見る。色の見分けはつかないけれど、その絵の中ではどちらから陽が差しているのかはハッキリと分かった。艶やかな果物は、今にもそれら身で光を放ちそうなくらいキラキラとしている。
「なんか、彼氏ができたらしいぞ、アイツ」
「え、マジすか」
そんな話、誰からも聞いていない。私が驚いていると、先生は小さく笑った。
「ずいぶん機嫌のいい絵を描くから気になったんだ。それで聞いたら、こっそり教えてくれた。さて、これで分かるだろう?」
先生は再び私の事を、笑みを浮かべながらまっすぐと見つめる。その笑い方は少年のようで、どこか楽しそうだった。
「ど、どういうことですか?」
それでも私はさっぱりわからなくて、頭の上にたくさんハテナマークを浮かべていた。伊沼先生に呆れられるかと思ったけれど、彼はゆっくりと口を開く。
「絵は、人の心を映し出す鏡みたいなもんだ」
「……鏡?」
「そう。今思っていること、感じていること……その全てが絵という形になって現れる。俺は、お前の絵を通して、お前の気持ちが知りたい。だから、描けって言ってるんだ」
「私の、気持ち?」
伊沼先生は深く頷く。
「三原がどんなことを考えながらキャンバスに向かっているのか、上手いか下手かも、どんな色で世界が見えていようが関係ない。そこに必要なのは、三原の気持ちだけだ」
先生の話を聞いている内に、ポッと頭の中が熱くなるような気がした。私がちらりと真っ白なキャンバスを見ると、伊沼先生はいじわるそうに笑う。
「時間はいくらかけても構わないと言いたいところだが……できれば年内には描き終われよ」
「え? どうしてですか?」
「だって、成績評価で使うだろ。」
「せ、成績!?」
素っ頓狂な声をあげると、先生は「当たり前だろ」と鼻でせせら笑う。
「このまま出さなかったら、三原の成績付けられないからな」
「もし付かなかったら、私、どうなるんですか……?」
「んー、落第かもな」
落第。
その言葉は、私の足元をガラガラと崩していくほどの恐怖が詰まっている。私は慌ててキャンバスの前に椅子を持って行ってそこに座った。鉛筆を握り、少し迷いながらも意を決してキャンバスに線を描き始めた。
伊沼先生は私が絵を描き始める様子を少しだけ見ていた後、自分もイーゼルを出して、何やら描きかけの絵をその上に乗せていた。そしてパレットに絵の具を出して、ゆっくりと筆を走らせていく。
その姿は、伊沼先生が『先生』でいるときよりも生き生きしているように私の目には映っていた。
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