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長谷川先生はのほほんとした口ぶりで、的外れな事を言った。私がムッと口を曲げると、フォローするように笑っていた。
「ほら、そうやって学校の先生に反抗するっていうの? 私にもそんな時期があったわ」
「長谷川先生は伊沼先生の面倒くささを分かってないからそんな事言えるんです! 今日だって先生に追いかけられて……危うく病院に行けないところだったんだから」
「そういうところが若くて羨ましいのよ、学校中を先生と追いかけっこなんて……でも私、彩香ちゃんみたいにお転婆じゃなかったから、さすがにそこまではしなかったけどね」
「私だってしたくてやってるんじゃないんですぅ~!」
口をとがらせていると、長谷川先生は私の顔を見て楽しそうに笑っていた。雑談をしている内に、いつの間にか次の検査の時間が迫っていたみたいだ。長谷川先生に促され、私はカバンを持って検査室を出ようとした。
「そうだ、彩香ちゃん」
そんな私の背中に、長谷川先生が声をかけた。
「彩香ちゃんが通ってるの、常盤台高校だったわよね?」
「うん、そうだけど?」
偏差値だけではなくこの病院への通いやすさも考えて進学した。オリーブグリーンのブレザーと赤いチェックのスカートが可愛いといって選んだ子も多いみたいだけど、その色は私には分からないままだった。
「それがどうかしました?」
私が小首を傾げるが、長谷川先生は柔らかい笑みを浮かべただけだった。
「ううん、聞いてみたかっただけ。それじゃ、次の検査頑張ってね」
「変な先生! じゃ、また来月」
「はーい、またね」
この長谷川先生の「またね」もすっかり聞きなれてしまった。
長谷川先生の検査が終わると次は、まるで工事現場みたいにうるさいMRIの中に入れられて脳の断面図を撮る。でもそんな検査をしても、担当している先生に言われるのは「今日も異常はありませんね」と一言だけ。いつもは見ることのできない頭の中の写真を見せられても、私は専門家じゃないから、自分の目と頭の中で何が起こっているのかさっぱり分からないまま。分かるのは「異常なし」という言葉だけだった。
検査が終わって病院を出る頃にはすっかり暗くなっていて、私の世界が黒一色に包まれていく。夜が更けて暗くなっていくほど、街灯や車のヘッドライトの強烈な白い光が目に刺さり、目の奥が痛くなってしまう。私はその強烈な光が目に入らないように顔を地面に向かって伏せて、急ぎ足で帰路についた。家に着いた時、お母さんが玄関で出迎えてくれて、食卓には晩ご飯が並んでいた。
「彩香、おかえり。早く着替えて手を洗ってきなさい」
「はーい」
お母さんに言われた通り、私は自分の部屋で制服から部屋着を着替えて、手を洗いに洗面所に向かう。
鏡に映るのは、いつも通り『異常なし』の顔だった。ぼんやりとした灰色の輪郭に触れながら、目を閉じる。
私はもう、自分自身がどんな色をしていたのか思い出せないでいる。
十歳の時に、交通事故に遭った。
小学校の近くにある公園から、突然私が道路に飛び出してきたらしく、そのまま車に撥ねられた。すぐさま常盤台大学病院の救急に運ばれ、そこで治療を受けて、無事に一命を取り留めることができた。
全身を強く打った私は体中が傷だらけで、その中でも脳へのダメージは大きかった。私は事故の事をあまり覚えてはいない。少し時間が経ってからお母さんから聞いた話だけど、お医者さんが言うには一生寝たきりか……もう二度と目が覚めない可能性もあったらしい。
事故から一か月ほど経ったある日、私に奇跡が起きたのか、ついに意識を取り戻した。この日の事は、まるで昨日の事のように覚えている。
真っ白な天井と、私の目を突き刺すくらい眩いライトの光。そして、私の目が開いたことに気づいて覗き込んでくるお母さんの顔。体を動かそうとしてもまるでベッドに縫い付けられたかのように動かなくて、しかもあちこちが痛かった。でも口は動かせることができたので、私はゆっくりと、まるで絞るように声を出した。目に飛び込んできたものが、その時の私には不思議でたまらなかった。
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