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「きょ、今日は用事があるんです! それなので、し、失礼しまーす」
伊沼先生の脇をすり抜けようとするが、先生は強く私の肩を掴んだ。指が肩に食い込んで少し痛い。
「今日は病院の日じゃないんだろ? 担任から話は聞いてるぞ」
見上げると、伊沼先生は不敵な笑みを浮かべていた。
「ほら、いい加減観念しろ」
伊沼先生は私の腕を掴んで、そのまま引っ張っていく。力ではかなわなくて、私はそのまま連行されていくほかなかった。
「ど、どこに連れていく気ですか!?」
「美術室に決まってるだろ」
「ちょ、ちょっとその前に話があるんですが!?」
「そうか。俺にはない」
「ま、待って……舞! 莉子ちゃん! 見てないで助けてよ!」
引きずられながら叫ぶと、もうずいぶんと遠くになってしまった二人とも諦めるように笑った。
「ごめん、ちょっとそれは無理かな~」
と、莉子ちゃん。
「サヤ、頑張れ~」
と、舞。
「ひどい! 甲斐性なし!」
私の叫びは虚しく、廊下に響きわたるだけだった。
そのまま、私は美術室に連れてこられていた。不気味なほど真っ白な石膏の胸像が窓際に並んでいて、その一つと目が合うと少し怖くなって、ぶるりと背筋が震える。伊沼先生は私のそんな様子に気にも留めず、教室の真ん中に机とイーゼルを置いた。机の上には作り物のリンゴとバナナとオレンジが並んでいる。そして先生は、何も描かれていないキャンバスをイーゼルの上に置く。キャンバスには私の名前が付箋で貼られていて、それが私のために用意されていたことが分かる。
「お前も知ってるだろ? まずは鉛筆でキャンバスに下絵を描いてから、水彩絵の具で色を塗っていく」
「……知りませーん」
ぷいと顔を反らすと、先生は憮然としたように息を漏らす。
「何だよ、授業聞いてなかったのか? 少しは人の話を聞けって」
「……先生だって、私の話聞いてくれないじゃないですか」
「は?」
「……こんな目だから、私には絵なんて描けないって」
口を尖らせていると、先生は頭の後ろをポリポリと掻く。そしてため息をついてから、ゆっくりと口を開いた。
「どうして、三原は『自分は絵が描けない』って思うんだ?」
その言葉は、思いがけないものだった。
「え?」
「目の病気の事は、担任から話を聞いている。けれど、その病気になる前は絵だって描いてたんだろ?」
「そ、そうですど……」
事故に遭う前は図工の授業だけじゃなくて、休み時間や家でも絵を描くことがあった。色鉛筆を使って虹を描いたり、紙一杯に花を描いたり。とても楽しい時間だったのは、うっすらと覚えている。
でも、今の私には、鮮やかだった虹の色色鉛筆の色も、ただのグレーのグラデーションにしか見えない。
それに、正しい色だけじゃなくてその濃淡、もし他の色が混じっていたらその境目も……私の目には全く分からない。それなのに絵なんて描いたら、きっと、いや絶対に、周りに比べてまた浮いてしまう。またひそひそと陰口を言われてしまう。それが嫌で仕方なかった。
「今は、正しい絵なんて描けないんです。だから……」
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