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琥珀の爪
月が宙にいなくなってから、海は潮の周期を欠いていた。月は姿をくらました。夜空は月光を失った。安らかさを忘れた海は母を喪ったかのようであり、暗闇の帰還した夜は母を取り戻したかのようだった。それにもかかわらず、夜は薄ぼんやりと明るかった。明けることも沈むこともない白い夜が、うずくまるように、漂っていた。
枝の折れる音がした。乾いていて、軽やかであり、血と肉が握り潰されるような、頼りない音だった。脊椎を震わせるそれはおぞましく、それでいて晴れやかさをもたらすものだった。
背中から翼のようなかたちの枝が生え始めたのはいつのことだっただろう。月がいなくなる前にはそんなものはなかった。覚えているのはそのくらいだった。
霜枯れの枝がこぼれ落ちていく。かよわい日光に、背中にはえた羽根のようなかたちをしたものは、萎れ、枯れて、折れていく。それでもはえてくることをやめない。折れたところで痛くはない。ただ、白い水のようなものが折れた傷を塞ぐだけだ。樹液のようなものなのだろうか。それがなんであれ、僕の背にあるものは諦めが悪く、いぎたなく、無様だった。
「僕そのものでもあるまいし」
白夜にたゆたう脆い光が、僕の指先にある爪のかたちをした琥珀を輝かせた。
この冬はいつから始まったのだろう。夜が闇にまどろんで、樹木が大地を覆った頃は、僕が目にする季節は冬だけではなかった。あの頃はまだひとのかたちをしたものだっていた。襲われて、怪我をして、持ち物のすべてを奪われたこともあった。そんなことを繰り返しているうちに、傷ついた脚は肉と枝葉の混合として治るようになった。剥がれた爪に樹液が溜まるようになった。覚えているのはそのくらいだった。
いつしか空の吐き出すものは雪だけになった。旅と呼べば聞こえがよいものの、漂泊の足場は雪と氷だけになった。樹氷ではない森を、雪原ではない平野を、厳冬に蝕まれていないものを見出すことはできなくなった。空と雪原が広がる景色には、それを眺めている僕をのぞいて、みずから動くものの気配はなかった。
もしかすると、いきものは絶えてしまったのかもしれない。だが、毒なる酸素を喰らって別のものへと変じたように、春を知らずとも冬を喰らって増えるなにものかがどこかにうまれたのかもしれない。
剥がれた爪に溜まった樹液は、いつしか琥珀となっていた。
「火だ」
雪原でしかない丘の上。凍てついた空を見つめたままの視界にきらめいた彩りが、脳裏に浮かぶことすら久しくなかったものを想起させた。だが、口をついて出たことばとは、なにかが噛み合わなかった。
「陽、だ。太陽の、光だ」
この唇から凍りついた音が落下して、雪に呑まれた。口にしたことばに誘われて、這い上がってきた感覚があった。それは渇望のようでもあり熱狂のようでもあった。ことばにできない狂騒だった。それは、胸中をざわつかせ、口腔で渦巻き、蕩けるような甘さをもって舌を刺した。
ながいこと、このこころもちを忘れていた。この情動を忘れていた。縋りつきたいと、救われたいと、ひとりはさびしいと、衝動のまま心をふるわせることを忘れていた。
だからこその冬なのか。
「冬は、おわる」
誰かを塗り潰せば、きっと終わる。だけど、見渡すかぎり、何もいない。誰もいない。だから、終わらせることが、僕にはできない。
氷の大気は風に砕ける。舞い上げられた粉雪が地を走り、波のようにとぐろを巻く。白けた夜がぼやけている。静寂に曙光の煌きが華と咲く。
目を眇めて立ち尽くす僕の前には、雪原だけが広がっていた。
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