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最終楽章 Dal Segnoをもう一度
お隣で飼っている犬は、人が通りかかるだけですぐに吠える。そのたびに気にしてなどいられないから、その日止まない鳴き声に外のようすを窺ったのはほんとうに偶然だった。かろうじて理由を捻り出すとするなら、落雷が地盤を揺るがすほどの激しい嵐が通り過ぎてまもなくのことだったから、こんなひどい天気のなか出歩いている人がいたのか、と好奇心に駆られたのかもしれない。
ポンチョを被り、分厚い毛糸のソックスでサンダルをつっかけて外に出る。片手に持った懐中電灯を水平方向に滑らせ周囲を見渡すと、向けられた強い光に立ち止まった人物がいた。雨に降られたのだろう、濡れたジャンパーが懐中電灯の照り返しにてらてらと光っている。
雫の滴る淡い色の髪が、その人物がだれであるかを告げていた。
「あら、レドくんじゃない。傘も差さずに出かけていたの」
思わず駆け寄る。レド・ギルヴァンと名乗るこの男のことは、何年か前に引っ越してきて、近所に住んでいるらしいということしか知らない。盛んな交流はないが、こうしてすれちがうたびに挨拶してくれて、こんなおばさんの話し相手になってくれるところに可愛げがある。同じくらいの歳の息子がいるが、息子よりも可愛いかもしれない。なにより顔がいいので目の保養になる。
「だから何回も口を酸っぱくして言っておいたでしょう。天気予報くらい目を通しなさいって……」
会うたびになにかと世話を焼いてしまうのは、今は地元を離れて一人暮らしをしている息子の代わりにして、寂しさを紛らわせたいがため。そんな我が儘にも嫌な顔ひとつせず付き合ってくれるレドの優しさにいつも甘えていたが、その日はようすがちがっており、思わず話の途中で言葉に詰まった。
髪と同じ色のレドの瞳には、まるで生気がない。天気の話をしている場合ではない。家に寄ってシャワーを浴びていくように誘った。
「いいよ、おばさん。自分ちで浴びるから……」
レドは拒むが、言葉とうらはらに手を引くと抵抗もなく後をついてくる。触れた手は自分の背筋がぞっとするほど冷たく、早く温めてやらなければと気が急いた。
こんな状態になるまで放っておくなんて、レドの親御さんは何を考えているのかしら。それとも、親御さんと挨拶した覚えがないということは、レドは一人暮らしなのだろうか。そもそも、レドとの出会いの記憶が曖昧だ。……思い出そうとすると、頭が割れるように痛む。
玄関に入り、レドにはずぶ濡れのジャンパーを脱ぐように促すと、自分はいったんバスタオルを用意しに奥へと向かった。戻ってくると、レドは聞いていなかったのかジャンパーを着たままで立ち尽くしている。ふと、ジャンパーのポケットに突っ込んだままの右手に目がいった。腕をぽんぽんと叩くと、レドは観念したようにポケットからゆっくりと手を引っこ抜いた。拳に固めた手を花がほころぶように開いて、握り込んでいたものが顕わになる。
無線式の小型スピーカーとして若者のあいだで爆発的な人気を誇る【A:muSe】。ターコイズブルーの色合いが綺麗だが、なぜか片方だけ、掌に載っていた。
「……レドくんの持ち物? もう片方は」
レドは首を振った。
「拾ったんだ」
それっきり、レドは口を開かなかった。……これから先、今以上に打ち解けることがあっても、レドはきっと今日のことを話してくれないだろう。そんな予感がした。
肩をすくめたあと、バスタオルでレドの全身を拭いてやり、シャワールームへと送り出す。ただの近所に住むおばさんがしてやれることはそれくらいだ。……でも、どうか、笑っていて。今日のように、息が詰まるような悲しい顔を二度と見ることがありませんように。そう神さまに祈った。
コートのポケットにしまったはずの【A:muSe】の片割れを落としたらしいとミラ・イゴールが気づいたのは、〈運命の日〉から一夜が明けた翌日のことだった。テーブルの上には帰宅後に耳から外した片方しかなく、ポケットを何度もひっくり返して探したが、雫を模した丸い形が床に転がることはなかった。
「せっかくなら、【CoMMuNE】と一緒に新しくしたら?」
気楽に母は言う。雨に打たれ、使い物にならなくなった【CoMMuNE】については、旧い型であったことも後押しして、買い換えにミラも渋々承知した。一方、【A:muSe】は対で使用して初めて【CoMMuNE】やその他の機器と連動できる仕様であり、たしかに片方だけ持っていても意味を成さない。しかしミラはうんとは言わなかった。
ショップでの機種変更はスムーズだった。流行りに疎いミラにはこれといった拘りもなく、店員に勧められるままに先日発売したばかりという最新機種で契約を結んだ。
幸いバックアップ機能が生きていたので、壊れた【CoMMuNE】から新しいそれへとデータを移すことに成功した。家族の連絡先を登録しなおす必要もなければ、過去のメッセージのやりとりも見ることができた。当然、未来から送信されたメッセージも。
遠い未来で、コンピュータ・ウイルスが感染拡大したとき、バックアップは機能しなかったのだろうか。きっと、コンピュータ・ウイルスがあまりに強力すぎて、バックアップのデータすら破壊してしまったのだろう。ミラはいとも簡単に壊れた【CoMMuNE】の生き写しを手に入れることができたが……失ったものすべてを再現できる魔法があればどんなに幸せか、そう思わざるをえなかった。
17:16 送信
約束を果たせなくてごめんなさい。
一日遅れであったが、ミラは一縷の望みをかけてメッセージを送信した。相手から返信があれば、いかなる非難も、いかなる罵倒も、甘んじて受ける覚悟だった。しかし音沙汰はなく、あいかわらず届くのは要らない広告やDMばかり。時空を行き来した負荷で、繊細らしいワームホールは容易く閉じてしまったのかもしれないが、今のミラには返信がない理由を知る術もない。
楽譜と、【CoMMuNE】と、【A:muSe】の片割れ。〈運命の日〉の落とし物たちにどんなに後ろ髪を引かれようと、日常は足踏みを厭うて進みつづける。気がつけば、依然として返信のないまま数日が過ぎていた。
「レド王子、いつになったら来るのよ?! このままじゃあ課題が終わらない!」
カフェ・テリアにてミラの向かいの席で頬杖をついたマスカラ女子が、ふくれ面を繕いもせずタピオカミルクティーを啜った。マスカラ女子は外見こそ派手だが、意外と授業態度は真面目なようだ。
レド・ギルヴァンは〈運命の日〉以来、授業を欠席していた。雨に濡れて風邪を引いたのか、それとも楽譜の件のショックをいまだ引きずっているのか。レドに会ったら今日こそあの嫌味なほど澄ました顔を平手打ちしてそれでお互い手打ちにしよう、と毎朝意気込んでくるのに、肩透かしを食らってばかりでミラとしても不服だった。
「ミラぁ、お願い。ミラから催促してよ。王子ってばどんなに課題のためって言っても、連絡先を教えてくれないの。まあ、課題関係なく連絡するつもりでいたけどぉ」
マスカラ女子の、本音を包み隠さない気質は居心地がよかった。ミラはコーヒーを啜りながら「どうしようかなあ」と焦らしてみせる。泣きついてくるマスカラ女子に、貼りつけた笑みで承諾の返事をした。
空きっ腹にコーヒーだけを流し込む。マスカラ女子と影武者女子が注文したふわふわ生地のパンケーキは、見ただけで胸焼けがした。マスカラ女子は四種のベリーソースがけ、影武者女子はチョコレートソースがけをそれぞれチョイスしたはずだが、ミラの目にはどちらも同じに見える。
ミラは【CoMMuNE】を手に取り、メッセージを作成しようとして、初めて気づいた。登録済みの連絡先の一覧に、レドの名前はなかった。今までレドの連絡先を知る必要などなかったのだ。
パンケーキをひと口頬張り、顔をほころばせた影武者女子が、上機嫌そのままに口を開いた。
「そういえば、気になっていたのだけど、レドくんとミラの共通の趣味って、何だったの。もしかして天体観測?」
「ちがうけど……」
否定してから気がつく。ミラには音楽しかないとしても、レドがそれ以外に趣味があるかどうかは聞いたことがなかった。そういえば、レドの家族構成は? 住所は? 休日は何して過ごしている? ミラが知っているのは、レドは頑なに認めないが音楽が好きだということだけ。音楽に関する時間を共有しても、音楽以外についてはレドのことを何も知らない。
「ていうか、天体観測が趣味なのはあんたたち一家でしょ?」
マスカラ女子が影武者女子を指差して言う。影武者女子が笑顔で頷いた。
「こないだのアストロ天文台での彗星観測会も、みんなどうにか都合をつけて、楽しみにしてたの。でも天候が悪くて、予定していた時間を待たずして中止になってね。悔しかったから、ギリギリ八時までエントランスで粘ってみたんだけど、だめだった」
思わず身を乗り出す。危うくコーヒーの紙コップを引っかけて倒すところだった。
「七時半ごろ、だれか来なかったか?」
「だれか?」
影武者女子がきょとんとしておうむ返しする。ミラは何度か口を開け閉めしたが、まるで言葉が出てこない。やって来たであろう人物の見目容姿について、まったく見当がつかないからだ。せめて目印になる持ち物か、服装を聞いておくくらいすればよかった。
「だれかなんて、はぐらかさなくても。レドくんのことでしょ? 彼ならたしかに来たよ」
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