第三楽章 暴君と雪解けとaccellerando

1/6
41人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ

第三楽章 暴君と雪解けとaccellerando

 ミラ・イゴールは授業中に一睡もすることなく、その日最後のベルの音を間違いなく聞いた。ベルは始業時、午前の授業終了時、午後の授業開始時、終業時の計四回鳴る。たいていどこかで寝落ちするミラにとっては、年に一度あるかどうかの快挙だ。  かといって、真面目に授業を聞いていたわけでもない。授業用の電子端末には目もくれず、先生の死角になるように膝の上で待機させた自身の【CoMMuNE(コミューン)】を日がな一日睨み据えていた。【CoMMuNE】が振動した瞬間、神業ばりの指さばきで新着メッセージを確認するためだ。  しかし要らない広告やDMを報せても、ミラが待ち望むメッセージの新着通知は流れてこなかった。今日はハズレの日だな、とミラはがっかりするものの、割り切ることができるようになった点では己の精神面にもよい傾向かもしれない。  ミラが差出人不明の相手とメッセージのやりとりをはじめてから、おおよそ二週間が経とうとしていた。結論からいえば、現時点で大きな収穫はない。相手方の音楽事情については一切口を割ってもらえず、こちらの情報が一方的に搾取されるばかりだ。  この二週間、相手からの返信の間隔はまちまちだ。初回のようにメッセージの往復が比較的途切れないときもあれば、何時間も経ってから思い出したように返信が来ることもある。初回のやりとりがいちばん盛り上がったことは否めず、今や尻すぼみになりつつあるのを実感するが、それを挽回する切り札がこちらにはある――ミラの研究成果と、所持している楽譜だ。研究のほうは独自のやり方に拠っているし相手が食いついてくるかは怪しいが、楽譜は音楽保護を謳う結社(パーティー)の構成員なら喉から手が出るほど欲しいはずだ。  そんなことを考えながら、帰り支度をして教室を出る。校門へと向かう道すがら、吹き寄せる風は冷たい。空一面を覆う灰色の雲が一定の速度で流れていく。  暦上では時雨月から雪待月へと移ろい、寒さは日ごと厳しさを増す。数日前にクローゼットから引っ張り出したコートを着込み、防寒対策は万全だ。じゃっかん前屈みになって歩いていると、後ろから手を掴まれてその場に縫い止められた。触れた手の熱さに「ひっ」と声を漏らす。  ゆっくりと振りあおげば、ひょろりと背の高い影が、苦しそうに顔を歪めてミラを見下ろしていた。肩を上下させ、上がった息を必死に整えようと短い呼吸を繰り返す。……そんな表情ですら見惚れるほどに整っているレド・ギルヴァンであるので、少し愛想がよくなっただけで最近ますます女子たちからの視線が熱い。  レドとはしばらく会話のなかったミラであったが、レドのほうから追いかけてきたことを鑑みるに、レドはまだミラを同志として接してくれている――ああ、今のわたしは、そんな駆け引きばかりだ。たったひとり、とくべつな友人であるレド相手にそういう思考に陥ったことをミラは恥じた。 「……なんだ、藪から棒に」  不意打ちだったので、つっけんどんなもの言いになったが、レドは気にならないようすだ。淡々と、しかしどこか底知れない奥のところに熱を秘めて、レドは言う。 「おまえ、今日も来ないつもりか」  思わずレドの顔をまじまじと見つめた。レドは、ミラが足を運ばなかったこの二週間、きっと毎日訪れていたのだ。別館の四階にある、いつもの教室を。  変わったようで、変わらないこともあるものだ。ミラは口元がほころびそうになるのを慌てて押し隠す。 「ちょっと、立て続けに野暮用が入っていて。今日ももう帰らないと」  とっさに口をついて出るのは、嘘で塗り固めたもっともらしい答弁ばかり。「すまない」とこぼれ落ちた声は、表向きはレドの待つ教室に行けないことへの謝罪として理解されるだろう。しかし、レドは勘が鋭い。おそらくミラの嘘はすでに見抜かれている。  実際のところ、最近は自宅でも研究を怠けがちだった。例の相手とメッセージのやりとりが続くと、そもそも研究に充てている時間を奪われてしまい、かといって返信待ちが長ければ長いほど、考えることが山ほど出てきて研究に集中するどころでなくなるのだ。持ち歩いていた研究用のノートとペンは、今や自室の机の抽斗(ひきだし)にひっそりとしまわれている。 「というか、おまえはわたし相手に油を売っていていいのか。女子たちがきっと血眼になっておまえを探してるはずさ」  強引に話題を変えようと、ミラは半笑いの表情をつくった。 「今日はもう用はない」 「ほんとうか? ……じつは満更でもないくせに」  レドとの会話をまぜっかえさずにはいられないのは、もはやミラの悪癖となりつつある。  こんなふうに接したいわけじゃない。レドと過ごす時間に気兼ねは一切いらなかった、はずだ。……なのに、どうして、こんなにも本音が遠いのか。 「おまえのためには、そうしたほうがいいんだろうと思ったから、ちょっと距離を置いてみた。……女子の目を気にしているんだろう」  一瞬、雲間からのぞいた空の青がまぶしくて、ミラは目を細めた。 「……びっくりした。この間は、そこまで察しが良くなかったのに」 「良くなっちゃ悪いか」  レドは面白くないという顔をしている。ミラは首を振った。  レドがミラのためを思って行動に移してくれたのなら、それに報いらなければ。何を返せばいいだろう――そこまで考えて、ミラの頭にはたったひとつの答えしか浮かばなかったことに、苦笑する。 「じゃあ、ひさしぶりに一緒に曲を聴きながら帰るか」  うきうきと【A:muSe(アミューズ)】を用意するミラは、レドの改まったようすに気づかない。 「……帰り道、おまえに話したいことが」  ヴー、ヴー、とミラの鞄から鳴る振動音がレドの言葉を遮った。【CoMMuNE】だ。ミラの浮上した気分は一気に現実に引き戻される。  レドも間抜け面をさらして「なんで、今」とうわ言のように口にする。  ミラは先に断りを入れてから、【CoMMuNE】を取り出し新規メッセージを確認する。例の、いまだに名乗りもしない無作法者からの送信か―― 「げっ」  思わず呻きが漏れた。あまりに聞き苦しいその声に、レドが不審そうに眉根を寄せる。 15:59 受信 やっほー、わが妹よ、元気にしてたかい? 今すぐ、じゃ曖昧すぎるか。16:10までに、ギャラクシー(ストリート)239番地、メテオロン百貨店に来いよ。    続けて、もう一通。バイブレーションの無駄遣いだ、と思ってしまったことは、兄には内緒だ。 16:00 来ないとどうなるか、わかってるよね?    差出人不明のメッセージにかまけてすっかり忘れていた、ミラの兄――暴君からの呼び出しメッセージだった。  いつの間にか晴れ間は閉ざされ、曇天がどんよりと空気を重くする。じきに雨の予感だ。  ミラの脳裡に底意地の悪い笑みを貼りつけた兄の顔が浮かんで、一瞬で弾けて消えた。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!