第三楽章 暴君と雪解けとaccellerando

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 兄の本性が初めて牙を剥いた日のことを、ミラは忘れもしない。今の家に引っ越す前、賃貸暮らしで、二人がまだ同じ部屋で寝起きしていたころだ。  兄は一人部屋を欲しがったが、両親はその訴えを話半分に聞き流し、いずれはとかそのうちとか言って回答を濁した。ミラはそれを他人事として眺めていただけ、だったのだが。  ――今すぐじゃなきゃやだ。だって、こいつ、こっそりおれのもの盗ってくんだ。おれが集めてたカードだって、こいつが隠してるの、おれ知ってるんだからな。  そう叫んで、兄はミラの収納ボックスからトレーディングカード数枚をひったくるようにして掲げた。菓子のおまけについている類いのもので、当時流行りのゲームのキャラクターや敵の幹部たち、怪物がホログラムで浮かび上がる仕様になっている。両親も兄にせがまれて何度か買ってあげたのでよく覚えていた。  急に自分へ矛先が向けられたミラは水槽の中の魚のように口をぱくぱくさせるしかない。そのカード群は、数日前に兄が飽きたといって処分がてらミラにくれてやったはずのものだ。ミラは正直欲しくもなかったが、返却してごねられるのも面倒でそのままボックスにしまっただけのことだ。  ――ちがうもん! ミラは悪くないもん!  ミラは反論したが、両親がどちらの証言を信じたのかは結局わからずじまいだ。その騒動からおよそ一年後、イゴール一家は新築の今の家に引っ越して、兄は念願の一人部屋を手に入れた。  思い出したくもない、厭な記憶のひとつだ。しかし、暴君たる所以はこればかりではない。何事も自分の思い通りにならないと気が済まない彼の悪癖は生来のもので、この通称「トレーディングカード事件」以降も、ミラは兄の手によって数々の辛酸を舐めさせられることになるのだった。 「一分と十三秒の遅刻だね」  学校を家へと向かう方角から逸れて、通常なら徒歩で二十分。久々の全力疾走でメテオロン百貨店のエントランス前へ駆けつけたというのに、ミラの兄、シーファ・イゴールは煉瓦敷きの上に建った時計台を見上げて非情にもそう言った。  額に玉の汗を浮かべ、膝に両手をついて肩で息をしながら、ミラは荒い呼吸の合間を縫って切れ切れに苦言を呈した。 「無茶、言うな。これでも、急いで、来た、んだから」 「わかってるさ。だから責めてないだろう? 俺は来てくれて嬉しいよ」  シーファは、暴君というには似つかわしくない爽やかな笑みを浮かべた。外面は完璧なまでに整えられ、隙がないのがかえって怪しいくらいだ。  ……この猫かぶりめ。ミラは腹の中でそう罵りながら態度には出さない。それが、幼いころシーファにやり込められたなかで得た知恵であり、自己防衛のための最も有効な手段なのだった。 「トレーディングカード事件」がそうであったように、弁舌巧みな印象操作によって、まるでミラのほうが悪党であるかのように錯覚させるのが、彼のやり口だ。これが暴力や罵詈雑言であったならば、法的手段といった措置を講じることができるものを、シーファはそういった横柄さは見せないところが狡猾であるともいえた。今でこそミラは従順を装うことを覚えたが、昔はその幼さも手伝って何度も反抗を試みては泣きを見たのだ。  ミラは過去のあれこれを思い出し、ひとり苦虫を噛み潰した。 「呼び出すなら、せめて前もって連絡してくれないか。すでに断れない予定が入っていたら、どうするつもりだったんだ」  ミラが精いっぱい利かせた嫌味にも、シーファはどこ吹く風だった。 「そんなの、おまえが何とかしてくれるだろう?」  自分本位の独自理論を展開するシーファに、ミラは閉口する。こんな兄がどうして、一流企業に就職できたのか、甚だ疑問だ。  そう思ったことが表情にあらわれていたのか、シーファは胸を痛めたように、わずかに眉を下げた。 「前々から思ってはいたけど、俺って嫌われてるよなあ。兄ちゃんは悲しい」 「……急に呼び出すのをやめてほしいと言っているだけだ。だいたい、わたしなんぞを呼び出さなくたって、兄さんからの連絡を待っている人はたくさんいるだろう」 「そこが理解されないから悲しいんだ。兄妹の時間を持とうと俺は努力しているのに」  白々しい科白とともにすくめられる肩。遠回しにわたしに構うなと告げたにもかかわらず、シーファは気づかないのか、それともわかっていてあえて知らないふりをするのか。ミラは何とか苛立ちを抑えて平静を装う。 「で、何に付き合えって?」 「そうこなくっちゃ」  白い歯を見せ笑うシーファは、やはり暴君とは思えない涼やかさをたたえ、ミラは舌打ちしたくなるのを懸命にこらえた。
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