第三楽章 暴君と雪解けとaccellerando

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 シーファの今日のお目当てはメンズファッションフロアかと思われた。メテオロン百貨店を五階へ昇り、ブランドものからカジュアル衣服まで、幅広く見繕っては大人買いをした。ミラの両手はすぐに大量の紙袋でいっぱいになった。きっとこのために呼び出されたのだろう、とミラは癪に障りながらも腹を括るしかない。  しかし、そのうちある程度満足したらしいシーファがエスカレーターを降りてレディースフロアをぶらつきはじめたのに面食らう。ミラの【A:muSe】に似たターコイズブルーのコートを片手に、「おまえこういう色好きだろう」とミラの肩の線に合わせてあてがう。 「うん、なかなか似合うじゃん」  ……何が起こっているのか、ミラは理解が追いつかない。  シーファはコートを片腕に掛けてキープしたまま、別の売場で今度はグレーのセーターとベージュのスカートを手に取る。ミラが言葉を失っているうちにシーファが店員を呼び、あれよあれよという間にミラは試着室へと押し込められてしまった。 「俺の見立て通り。馬子にも衣装ってね」  試着室から現れたミラにシーファは目を細め、したり顔で腕を組んだ。それがミラには面白くないが、普段垢抜けない恰好をしている自覚はあった。 「お兄さん、センスがいいですね」と、店員の本心だかお世辞だかわからない科白にシーファは形だけ謙遜してみせ、ミラには一切の確認もなく「買います」と【CoMMuNE】の決済を強行した。 「いらない、あんな高そうな服!」 「高そうじゃなくて、実際高いんだよ」  シーファはにべもなく言い切ってから、顔面蒼白になるミラの頭をぽんと叩いた。 「そんな顔をするな。べつに、おまえに請求しようなんて思っちゃいないよ。おまえも年頃の娘なんだから、とっておき(ヽヽヽヽヽ)のために一着や二着は持っておくべきだ」  ……いったい、今日の兄はどうしたというのか。店員に話しかけられて対応する背中が、知らないひとに見えた。兄の手の感触を確かめようと頭に手を伸ばしかけたが、両手を塞ぐ大量の買い上げ品が邪魔をして中途半端に浮いた手を引っ込める。  振り返ったシーファは満面の笑みで――新たな紙袋をミラに押しつけた。 「ほら、次行くぞ、荷物持ち」  久しぶりに会う予定の友人の名前を挙げ、彼が好きだというちょっといい値段のワインを買うつもりのようだ。食料品フロアのリカーショップへと上機嫌で向かうシーファに、ミラは拳を震わせる。  やっぱり、暴君は暴君だ!  メテオロン百貨店を出ると雨のあとのアスファルトの匂いがした。店内にいると外のようすがまったくわからないから、雨が降っていたことすら気づかなかった。ゴロゴロと低くうなる音が空を覆う灰青色の雲のあいだを這い、いつ大粒の雨が再びしたたり落ちてくるかと気を揉む空模様だ。 「傘持ってきてないけど、濡れる前に帰れるよな?」  シーファの目が笑っていないので、戦利品を濡らしたらただでは済まなそうだ。  両手に大荷物を提げたまま、来たときのように全力疾走で家に帰ったミラは、雨に降られることこそなかったものの、ひさびさに酷使した身体が悲鳴を上げていた。大荷物を支えていた肩や腕、二度の全力疾走に(もも)とふくらはぎが鉛を含んだように重い。少し休息するつもりでベッドに全身を投げ出すと、兄との再会に張り詰めていたものが緩んで意識が遠のく。ミラがはっとして起き上がったころには深夜一時を過ぎていた。  階下に下りると、シーファはまだ起きていたようで、家の冷蔵庫に眠っていた安酒をひとり呷っていた。「なんだ、いまさら起きてきたのか」と酔いでじゃっかん据わった目を向けられると、表向きの好青年な印象は薄れ、彼本来の暴君の気質がただよう。 「夕飯は」とミラが尋ねると、シーファは顎で冷蔵庫を示した。扉を開けて中の皿を取り出す。エビ、イカ、ムール貝と魚介たっぷりのパエリアだ。豪勢だな、とミラは驚くが、よくよく考えれば、母にとっては可愛い息子のひさしぶりの帰省なのだ。腕によりをかけてご馳走を用意したのだろう。兄の顔を見ながら飯を食うのは厭なものだが、母のためにはダイニングにみな揃ってパエリアを囲めればよかった――そんなことを考えながら、レンジにかけて温めなおす。  待っている間、手慰みに【CoMMuNE】を取り出す。待ち受け画面に目を落として、忘れていた大事なことを思い出した。点滅するアイコン――新着メッセージだ。   19:37 受信 抽象的な質問になりますが、あなたにとって、音楽とは何ですか?    待ち望んでいた、例の差出人不明の相手からのメッセージ! もう五時間以上も前に届いている。相手からの返信はいつだって気まぐれだ。ミラは当初より手慣れた指さばきで万国共通言語の返信を打ち込む。   01:19 送信 わたしにとって、音楽とは愛すべきものです。わたしは音楽全般を愛しています。   「おい、温め終わってるぞ」  シーファに促され、ミラは慌ててレンジから皿を取り出した。兄の向かいの席につき、両手を組んで神への祈りを捧げてから食べはじめる。パエリアはサフランが利いていて美味しい。 「おまえ、最近どうかしてるんだって?」  見ないようにしていた兄の顔を渋々見上げると、シーファはまた酒を呷った。 「ハハウエが言っていたよ。おまえのようすがおかしいって。家には早く帰ってくるし、やたら【CoMMuNE】を気にしてるようだし」  スプーンを持つ手が止まった。ミラは言い返すことができない。母も、どうして兄なんかに告げ口するのだ。直接言ってくればいいのに。 「ハハウエは、別に勉強ができなくたって、おまえが何かに本気で熱中しているならそれでいいと思っているよ。それが将来に結びつかなくたって、今しかやれないこともあるだろうとさ」  そんなことを聞かされたのは初めてだった。言葉もなくまじまじと兄を見つめていると、シーファは唐突に酒を呷るのをやめた。 「俺は、おまえが何やってるのか知らないけど……やるからには、責任もってやれ。途中で投げ出して別のことにうつつ(ヽヽヽ)を抜かすようなら、兄ちゃん、怒るからな」  シーファは立ち上がり、酒を飲んでいたグラスを流しで洗った。ミラはその背中を目で追う。これだけは言っておかなければ、という気持ちが口を開かせる。 「投げ出したりしないさ」  固い決意を滲ませる、強い口調で言い切った。振り向いた兄は、我が儘放題だった昔を彷彿とさせる、意地の悪い笑みを浮かべていたが、それこそ兄らしいとミラはなんだか安心した。 「ま、兄ちゃんが言っときたいのはそれだけ。ちなみに、いくら熱中していることがあるからって、兄妹の団欒の時間は削らないでくれよ。毎日授業が終わり次第待ち合わせ、場所はメッセージ入れるから必ず確認しろよ」  オヤスミ、と軽く手を振る兄の背中に向かって、ミラは反射的に鍋つかみを投げつけた。幸か不幸か、鍋つかみはシーファの背に届く前に失速し、床に落ちる。シーファは笑いながらダイニングを出て行った。  ミラは沸々と煮えたぎる気持ちを、パエリアをせっせと口に運ぶことで紛らわす。  ミラの【CoMMuNE】が返信を告げたのは、そんなときだった。 01:25 受信 あなたの熱意は理解しました。愛しているとは、いささかおおげさだとは思いますが。  ミラは声もなく笑った。メッセージを読んで、ミラの唯一にして最強で最高の友人の顔が浮かぶ。……そういえば、ひさしぶりに音楽について語りながら帰る幸せな時間を過ごせそうだったのに、シーファに邪魔されてしまった。また埋め合わせをしなければ。 01:26 送信 あなたと同じことを、友人にも言われたことがあります。 彼は、音楽のことを好きかどうかわからないと言うけれど、わたしからみれば絶対に好きなんです。わたしのことをおおげさだと言いながら、彼も音楽を愛している仲間です。  レドのことを考えていたら不思議と優しい気持ちになるミラであった。つい心の赴くままにレドの話を打ち込んでしまう。相手からすれば雑談もいいところであろうし、さらなる返信を期待して送信したわけではなかった。だから、送信直後に【CoMMuNE】が振動したのはミラにとっても予想外だ。 01:27 受信 そうですか。あなたの友人という方に会ってみたいものです。もちろん、あなたにも。 01:27 受信 音楽についての楽しい話をできる友人など、私の周りにはいないものですから。  はっとさせられた。心臓をぎゅう、とわしづかみにされたような気分だ。  ミラはいつしか、相手のことを血も涙もない人でなしだと思い込もうとしていたのだろうか。こうして言葉を交わし、意思疎通をはかり、音楽を救ってほしいとSOSを発している時点で、相手にこころがないはずなどないのに…… 01:29 送信 それなら、わたしと音楽の楽しい話をしませんか。わたしが好きな音楽について語っても?  送信して、空になったパエリアの皿を洗って片づける。流れる水の音にかき消されることなく、【CoMMuNE】のバイブレーション音がその存在を主張する。  気づいて! 見捨てないで、と――  その叫びは、ほんとうに相手のもの? それとも、わたしのもの? 01:30 受信 ありがとうございます。ぜひお願いします。  まるで、ほんとうの友人になったみたいだ。ミラはようやく、相手という存在の切れ端だけでもつかめた気がした。  穏やかな時間が流れていた。夜は長い。明日は休日なのでどんなに夜更かししたって大丈夫、とミラは心を弾ませる。 【CoMMuNE】を両手で包むようにして、何の話からはじめようか、とミラは思考をめぐらせた。やっぱり、自分の原点ともいうべき、初めてピアノに触れたときの話をしよう。ほかの何者でもないこのわたし、ミラ・イゴール最初にして最後の作曲、へたくそな即興演奏を披露した日の話を。  さあ、秘密の時間のはじまりだ。
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