第三楽章 暴君と雪解けとaccellerando

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 時雨月の末あたりから、はっきりいってミラは挙動不審だ。膝の上に【CoMMuNE】を常駐させ、メッセージの新着と同時に内容を確認する行為を繰り返していた。  新着メッセージを確認したときのミラの表情は、たいてい二種類に大別される。ひとつはあからさまに落胆した表情。もうひとつは、目を爛々と輝かせ、期待に満ち溢れた表情。前者であるとき、新着メッセージは広告やDMだったと推測される。そして後者の表情が意味するのは、ミラが何者かからのメッセージを心待ちにしている可能性だ。ミラを観察し、落胆と期待とを見分けながら、レドはメッセージの新着時刻を脳内に焼きつける。記憶することは得意だ。レドには造作もない日課、のはずだった。  先週最後の授業日、帰り際のミラを引き留め、一緒に帰る腹づもりが何者かに阻害された、あの瞬間までは。  11:46  11:53  11:49  11:44  授業用の電子端末を操作し、ノートとして書き込めるフリースペースに、記憶している時刻を書きつける。順番に、三日前、一昨日、昨日、そして今日、ミラが新着メッセージを受信した時刻だ。どれも似たり寄ったりの時間であることからして、同一人物からの新着とみて間違いないだろう。この人物からメッセージが来たとき、ミラは落胆でも期待でもない、別の表情を見せる。いわば表情の第三勢力だ。  週明けに当たるちょうど三日前。午前中、いつものごとく死んだように眠っていたミラは、新着メッセージにようやく起き出して、画面を見るなり眉間にしわを寄せた。このしわが、第三勢力をほかと見分けるひとつの指標となる。そしてこのしわを確認すれば、ミラは終業後、研究そっちのけで一目散に出て行ってしまうことをレドは確信していた。  フリースペースに相関図を書き出していく。ミラ、広告DM、そしてミラがレドに隠したがっているメッセージ相手……この三角関係に、新たな人物を書き加える。が、正体が見えないので、何者だ? と殴り書きするしかない。荒々しい筆致。忙しなく回すペン。  もし今日、ミラの一瞬の隙をつくことができれば…… 「では、この問題を、レド・ギルヴァン。解いてください」  教師の指名に、くるくる回っていたレドのペン先が止まる。授業への集中は完全に欠いていた。教室内の視線が自分に刺さるのを感じるが、おそらくその中にミラが寄越すものはないのだろう。  レドの授業用端末はフリースペースから、先生が送ってきた問題の画面に切り替わる。教室内は全員の端末と無線で連携しているため、レドが今から自分の端末に書き込んだ内容が全員の端末の画面に写し出される仕組みだ。順を追って解法を示しながら、レドは解答にたどり着く。先生に称賛され拍手が沸き起こったが、レドは冷めていた。  こんなもの、一度解法を見ただけで、すぐに覚えてしまう。  レドは一度見たものなら基本何でも記憶することができた。幼少期の能力体力診断で判明したことだ。周りが覚えようとして覚えられないでいる苦悩が、レドには理解できない。  ……しかし、そのおかげでレドは今ここにいるのだ。そのことを感謝した。  気を取り直してレドはミラの観察を続ける。ミラは珍しく【CoMMuNE】から目を離していたが、あさっての方向を見ており、レドの視線に気づかない。  ミラが見つめる先の空は、連日の雨模様だ。前線が停滞しているらしい、と教えてくれたのはやはりいつもの近所の中年女性だった。ここ数日はかろうじて持ちこたえているが、先週も帰宅時間に被せてだいぶ激しく降っていた。  荒れた天候は、厭な記憶を呼び起こす。レドが繰り返し夢に見てうなされるほどだ。落ち着け、とレドは自分に言い聞かせる。あの日は、雨よりも風が強かった。風がとぐろを巻いて、木立を吹き抜けるときに甲高く無慈悲な音を奏でた。ひとりどうしようもなく佇むしかない無力なレドを世界があざ笑っていた。  レドは目を閉じることでその記憶を頭の片隅に追いやる。こんな記憶とは永遠にオサラバしてやるのだと、そう決めたじゃないか。今の俺は無力じゃない。そして今思い描くべきは、過去じゃない。未来だ。  ミラはとろとろと落ちてくる瞼をこすりつつ、ストレスから来る頭痛とも闘っていた。鎮痛剤が欲しい、切実に。  兄の帰省から昨日までの間で、ミラはすでに地獄を見ていた。三日前は今度職場の女性と行くつもりだからその下見と称して、列車とバスを乗り継いで一時間、目を見張るような高級レストランまでわざわざ出かけて行って食事した。一昨日は身体が鈍るといけないからとジムの体験入店に強制参加。昨日はミラが苦手なことを百も承知で、あえてチョイスしたのだろうホラー映画の鑑賞に付き合わされた。しかも三本! ミラは恐怖のあまり一睡もできずに朝を迎えた。シーファは奔放に、楽しげに、ミラを振り回す。  三日前は美味しいものを兄の奢りで食べられただけまだ良しとするにしても、ジムについては、予約に必要だからと勝手にミラの個人情報が渡されたのはいただけない。しかも体験入店のメニューがいささか過酷でミラは早々にリタイアした。さすがに文句を言ったら、お決まりの「俺はおまえのためを思って……」という科白が続いてミラは鼻白む。  いちばんわけがわからなかったのは、先週、メテオロン百貨店でワインを買った翌日に、友人宅へ持っていくのに同行させられたことだ。ボストンバッグを持たされ、説明のないまま遠路はるばるついていき、到着したと思った矢先に酒のつまみを買いに行かされた。買い物から戻ってきて初めて、シーファと友人は宅呑みの約束をしていたことがわかり、ボストンバッグの中身は外泊のための着替えのみと知るとさすがに拳が震えた。シーファが呼んだタクシーが来るまで玄関先でひとり傘を差しながら、ミラは心の中で何度わめいたことか。たったこれだけのことに妹を手足のように使うなんて、兄はクレイジーだ!  いいかげんわたしに飽きてくれと心から願うものの、今日も兄から待ち合わせの詳細が届いている。この授業を終えたら、待ち合わせ場所まで急がなくてはならない。午前中には詳細を連絡してくれるようシーファに懇願したのが功を奏して、初回以来遅刻は避けられている。どんなに無茶な要求であろうと、待ち合わせに間に合うように算段をつける時間さえあれば、どうにかなるものだ。  ミラの膝の上で【CoMMuNE】が振動する。ミラは脊髄反射の勢いで新着メッセージを開いた。 15:10 受信 あなたたちが羨ましい。お気づきだと思いますが、私たちは今、音楽を気軽に聴くことができる状態にありません。  ミラはこの差出人不明のメッセージ相手と急速に距離を縮めつつあった。相手もだんだんと心を開いてきている気配がわかるので、それが今のミラにとっていちばんのご褒美だった。  先日の夜の秘密の時間には、たくさんのことを話した。相手は音楽を聴く方法を知らなかったようで、【CoMMuNE】や【A:muSe】といった商品名も通じなかったことには驚いた。端末から無料音楽配信サイト【W・M(ウィズミュ)】にアクセスし、無線で端末と連動する小型スピーカーを耳にはめて音楽を聴くスタイルがもっともポピュラーだと噛み砕いて説明してやると、相手はたいそう喜んでくれた。  そのときから、この新着メッセージにあるような悲惨な状態はある程度予想がついていた。しかし、これは大きな前進だ。相手がずっと口を噤んでいた、あちらの音楽を取り巻く環境について、その内実を語ろうとしている……!  ミラの悩みどころは、どのタイミングでこちらの切り札を提示するか、ということだった。これはもはや心理戦だ。どちらが先に本音を明かすか、それによって盤面がどちらに有利に傾くのかが変わってくる。 15:13 送信 それはお辛いでしょうね。あなたの環境と比べると、こちらはよほど音楽の再興には先進的に見えます。 わたし自身、我流ですが失われた音楽を取り戻すために研究をしています。わたしの研究の目指すべき目標は、楽譜を再現することにあります。  ミラは結局、情報を小出しにしていくことを選択した。楽譜という言葉をちらつかせ、それに相手が反応するようであれば、楽譜の所持を公表し、必要であれば貸与もやぶさかでない代わりに正体を明かすように迫ることができる。  返信はすぐには来なかったが、ミラはひとつの大きな仕事を終えた気分だった。今日あと残すところは、兄との待ち合わせを乗り切るだけだ。  レドとの埋め合わせはすべてが終わってからでいいだろう、とミラは高を括っていた。先日のやりとりで、レドのこころがまだ離れていないことを知り、安心しきっていたのも大きかった。  終業のベルが鳴る。ミラは授業用の電子端末以外を五分前にはすべて鞄にしまっておき、ベルの最初の音が聞こえるか聞こえないかのうちに端末を鞄に突っ込むと、今日も教室出入口に張られた見えないゴールテープを一番乗りで切るべく、席から滑り出た。  ミラにとって、それは小さな誤算だった。  ドアから伸びるように生えた腕。見覚えのある光景に、ミラの背中を再び汗がつたう。 「学籍ID791209、ミラ・イゴール」  そう、小さな誤算とは、最後の授業が万国共通言語であったことだ。先生に捕まったら最後、長い説教がはじまって、とてもじゃないが待ち合わせに間に合わない。ミラは頭をフル回転させてこの場を回避する方法を探った。 「最近、いいじゃないか。いや、きみがやればできる子だというのはじゅうぶん承知していたがね。この調子で頑張りたまえよ」  先生はにこやかにそう言っただけで、もう何も言うことはないのか、質問に来たほかの学生の相手をしはじめた。ミラは面食らうあまり呆然と立ち尽くす。  たしかにミニテストの点数に限っていえば、ここ数回右肩上がりで伸びていた。以前約束させられた、二ランク以上のミニテストの成績向上も達成している。メッセージのやりとりのおかげで、言語感覚が身についたのかもしれない。すべて結果論であって、この授業へのミラの意欲が高まったわけではないのだが。  いや、そんなことはどうでもいい! この程度なら時間のロスにはならない。ミラは慌ててエレベーターへと急ぐが、現在使用中で人待ちができていた。ミラはエレベーターを諦め非常階段へと足を向ける。  非常階段は建物の外に螺旋状に設置されている。外へと続く重いドアを開けると、鉄の錆びた匂いがいつもより強く鼻腔を刺激する。簡素な屋根すらない踊り場に出れば、小糠のような雨がミラの全身を包む。踊り場からはエントランス付近がよく見えた。  人垣ができている。  人垣を構成するのはほとんどが女子学生であるようだ。レドに向けるような黄色い歓声とまではいかないが、色めき立つようなざわめきが人垣の間を伝播していく。  螺旋階段の最後の一段を駆け降りるまで、ミラは脳内で繰り広げられるありえない妄想をまさか、と首を振って打ち消しつづけた。  果たして―― 「おまえ家に傘忘れてったろう。しょうがないから待ち合わせを変更して、俺が学校まで迎えに来てやったよ」  遠巻きに見やる人垣の視線の先には、対外用の爽やかな笑みを貼りつけたシーファ・イゴールがいた。黒のトレンチコートを品よく着こなし、雨の中傘を差して人待ち顔に佇む姿は麗しの貴公子……に見えなくもない。シーファが非常階段を降りてきたミラに気づいて小走りに近寄ると、人垣から割れるような悲鳴が飛んでくる。 「なんだ、せっかく持ってきたのにすでに濡れて。風邪ひくぞ」  シーファが自分の傘をミラにも差しかける。傘の生地を叩く雨の音もほとんどしない。ミラが浅い呼吸を繰り返す音だけが、ひとつ同じ傘のしたでこだまする。  ミラは兄との待ち合わせに何としても間に合わせねば、という強迫観念にも似た焦りが霧のような雨の向こうに消えていくのを感じた。風船の空気が抜けてぺしゃんこになるように、身体の力が抜けていく。 「ああ、俺そっち行くって連絡入れなかったもんな。待ち合わせ場所まで急ごうとしてくれたんだろう。ありがとな」  シーファがミラの頭をくしゃくしゃにかき混ぜる。……兄に「ありがとう」なんて言われたの、何年ぶりだろう。ミラはどんな顔をしていいかわからず、ただ俯いてシーファにされるがままに任せた。こうしていると、仲のよい兄妹みたいだ。  ……いや、兄妹に見えるだろうか?  極度の緊張状態や不安から解放され、やっとひと息つけるように思えても、今度は別のことが気になってくるのは、人間の哀しいさがである。周囲には人垣となった女子の殺気立つ視線、暴君であることを差し引いてもお釣りが出るくらいには見目だけは良いシーファ、そして今この、ひとつ同じ傘のしたの状態は……  シーファからひったくるようにしてミラは自らも傘を差す。傘を差す者同士、ぶつからない適切な距離を取り、ミラはようやく安心できた。兄は面白くなさそうな顔をしているが、兄妹でひっついていったい何が楽しいのか。 「とりあえず、今日の予定は」  ミラはシーファを促す。雨が降っているなら、早く帰るに越したことはない。ちゃっかり妹の手を引こうとする兄を、ミラははたいて拒絶した。  ミラとシーファ。ふたつの傘が、校門を出て、けぶるような雨の中、家路とは外れた方向へと道の角を折れる。  女子の視線は常に二人に釘付けで、その人垣の最後列に異分子が一人紛れ込んでいることにだれも気づかない。一部始終を見届けたあとも、興奮冷めやらぬようすで友人同士輪をつくって会話する女子たちを尻目に、ひょろりと長い影がだれよりも早くその場を離れた。今から二人を追跡するのは不可能だろう。諦めて帰路につく。  人垣は隠れるのにうってつけだったが、女子の喚声にかき消され二人の会話はまるで聞こえなかったのが難点だ。ミラを連れ去った相手の情報はまるで掴めていない。 「何者だ、あいつ……」  レド・ギルヴァンのつぶやきは、雨とともにアスファルトの地面に吸収され、だれの耳にも留まることはなかった。
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