第四楽章 Tempestosoな夜

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 メッセージ相手が生きる未来と、ミラが生きる現在とでは、大きな隔たりがあった。それは時間的隔たりだけではなかった。  相手も歴史としてしか知らない時代に、世界中を巻き込む大きな戦争があった。無論、ミラの生きる現在にはかすりもしない時間軸の話だ。ミラからすれば遠い未来のこと、しかし、メッセージ相手にとっては確実にあった過去のできごととして、その世界大戦は大きな爪跡を遺した。  大戦では、もちろん兵器が使われ多くの人民の命が奪われたが、ミラが知っている過去の大戦と大きく異なるのは、それが情報戦争であったことだ。情報統制やAIによる戦術戦略――あらゆる情報のデータ化が恒常された社会で、いかに相手国の裏をかき情報を仕入れるか、相手国の軍事機密を管理するシステムを破壊するかが、この大戦を制する鍵だった。  そもそもは、独立国家を謳いながらも世界協定の枠の中ではその独立が認められていないひとつの地域への軍事侵略がきっかけだった。長いあいだ緊張状態にあった二大大国がここぞとばかりに介入して対立を深め、ことは大きくなって世界大戦の様相を呈していった。  同盟のために巻き込まれる形となったとある小国は、敗戦したくない一心で、あらゆるデータを破壊し無に帰すことができるコンピュータ・ウイルスの開発に成功した。囮の軍事機密データにそれを忍ばせ、相手国の間諜員(スパイ)につかませる。増殖のための潜伏期間を経て、いざ発症の期日を迎えた。  小国の軍部トップたちは相手国の混乱のありさまを肴に一杯ひっかけようと自分たちのコンピュータを立ち上げ、顔色を失った。保存されていたはずの軍事機密を含め、プライベートファイルにいたるまで、すべてが消えていた。コンピュータは初期化した状態そのものになっていた。  ときは戦時中。間諜員は入り乱れ、だれがどこに手垢をつけたのか、すべてを把握している人はだれもいないだろう。それが仇となった。  あまりに感染力の強かったそのコンピュータ・ウイルスは、世界各国で増殖し、果てには一周して開発した小国にまで気づかぬうちに感染範囲を拡大していたのだ。ものの見事に、全世界のコンピュータが、そのコンピュータ・ウイルスの餌食となった。  もはや戦争どころではなかった。文明は崩壊した。勝利も敗戦もないまま、急遽、休戦協定が取り結ばれ、命を落とした多くの人が犬死にだったとして非難の嵐が巻き起こった。  休戦後はどの国も復興を優先し、しばらくはみな生き延びることに必死だった。そうやって時が過ぎ、百年、二百年が経って、ようやく物質的な豊かさを取り戻しつつあった世界には、足りないものがあった。  大戦前は、あらゆるものの電子化が進んでいた。多くの文化的財産や娯楽が電子データ化され、それ以前の質量を伴ったものの大半は不要物として棄却された。  大戦によって失われたのは人民の命だけではなかったのだ、と人々はようやく思い当たった。それらは生き抜くうえで必要とされなかったぶん、後回しにされてしまった。それはしかたのないことかもしれない。しかし、それゆえに人々のこころは空虚なままだった。楽しくて笑うことも、感動に涙することも、毛細血管のすみずみまで血が巡るような興奮も、全身の細胞が共振するような胸の高鳴りも、何もないのだった。 14:49 受信 コンピュータ・ウイルスを開発した小国は今はもうありません。世界各国からの糾弾はもとより、国内からも反感が高まって国政は崩壊、人民は散り散りとなりました。彼らは愚かでした。敗戦への恐怖のあまり理性を捨てて危険な作戦に打って出、結果として大切なものを失いました。 14:50 受信 今、ようやく昔のような心の豊かさを取り戻したいと、世界中が動きはじめています。課題は山積みです。私たちは、音楽再興班に任命され、活動に励みました。 今の活動は、過去の音楽の痕跡を探すことがメインです。私たちは発掘作業と呼んでいます。痕跡のサンプルが増えれば、復元を試みることも検討できますが、まだその域にも達していません。明らかにサンプルが足りない。 14:51 受信 そもそも音楽とは何なのか? それすらも私たちにはわかりません。ジャンルの名称は今に伝わっていても、ポップ・ミュージックとはどんなものなのか、クラシックとはどういうものなのか、まったく想像にも及びません。 14:52 受信 活動は暗礁に乗り上げ、私たちは焦りました。やはり一度過去に立ち返り、本物を知らなければどうにもならない、と感じたのです……  その矢先に観測した、特異点と微弱な磁場の乱れ。  音楽再興班のだれしも、それに一縷の望みを託すことに異論はなかった。それほどに事態は行き詰まっていたのだ。祈るような気持ちで、ワームホールへ向けてメッセージを送信した。 これを読んでくれているであろうあなたへ このメッセージが届いているなら、それは運命です。どうか返信をください。それだけが私の望みです。 と―― 14:54 受信 私たちは、あなたが楽譜を譲ってくれるくれないにかかわらず、〈運命の日〉に時空を超えます。音楽を体感し、先述した、音楽とは何なのか? という問いに対する答えを持ち帰るために。 しかし、物質的にも持ち帰れるものがあるならば、それは大きな収穫です。 貴重なものであることは重々承知しています。全部を譲ってくれとは言いません。ほんの一部でもいいのです。 14:56 受信 実は、私たちはあなたに送ったようなメッセージを、何百件、何千件、手当たり次第にワームホールの彼方へと送信しました。そして返信があったのは、たった一件だけ。 私たちにはあなたしかいません。どうかお願いします。  ミラの【CoMMuNE】には相手が送信するメッセージが一方的に溜まっていく。ミラが手でスクロールしなくても、画面は自動で新着メッセージを受信して下から上へと滑らかに進む。相手の端末にも、メッセージを送信したそばからミラが目を通したことを報せる表示が出ているはずで、ミラが何の反応も示さなくてもコミュニケーションとして破綻はないと見てよいだろう。  相手からも相槌や反応を促すメッセージはない。それもそうだ。今、相手はふいに灯った期待と希望に目をくらまされ、軽い陶酔に浸っているようなものだ。  メッセージの中で唯一ミラの慰めになったのは、ミラが試みていた研究はやり方として間違っていなかったということだ。おそらくメッセージ相手は未来の幹部候補(エリート)たちであろう。その彼ら彼女らが音楽再興を目標に掲げて行っていた発掘作業とやらの考え方は、ミラの研究に通じるものがあった。言えるものなら声を大にして「そら見ろ! わたしの慧眼を思い知ったか!」とレド・ギルヴァンに言って聞かせてやりたい。……そのさまを空想したところで、ミラのこころに巣食う虚しさが埋まるわけでもないのに。  今なら、いつしかレドが「研究で音楽の現状を止めることができるとは思えない」と評した意味がわかる気がした。頭のいいレドのことだから、最初からすべてお見通しだったのだ。実際、ミラや音楽保護を謳う結社(パーティ)が現状どんなに研究や保護活動に励んだところで、その努力は水の泡となり、未来で音楽は失われてしまうのだから。  楽譜譲渡の件も、たとえミラが快く譲ってあげたとして、遠い未来でそれが花開き実を結ぶ保証はない。現在でさえ、数少ない記録と音源を照らし合わせる作業は難航しているというのに、さらに数百年を隔てた未来でそれを実現しようというのはなおさら無謀であるように思われた。彼らが時空を超えてはるばる過去(こちら)へやって来たとしても、現実に打ちのめされ、がっくり肩を落として未来へと帰っていく事態になりはしないだろうか。  それに――ミラが所持している楽譜は、師匠から譲り受けた大切なものだ。おいそれと渡すことはできない。  かといって、今から希望の光を胸に時空を超えようとしている友人(ヽヽ)を引き止め説き伏せれば、彼らの希望の芽を摘んでしまうことになる。可哀想なことはしたくない。それに、来たって何も得るものはないと、ミラにはそう思えるかもしれないが、それを判断するのはやってくる彼らだ。ミラがつべこべ言う筋合いではないだろう。  まるで仕組まれたように、レドとすれちがう日々を経て、最悪のかたちで決裂に至ったその日に、メッセージ相手が心を開いてすべてを打ち明けてくれるなんて。  ミラはレドとのたったひとつの友情と引き換えに、未来の音楽を救うのだろうか。どちらも選ぶなんて欲張りはきっとできないのだろう。  相手からのメッセージは14:56を最後に、打ち止めになっている。ずっと振動しっぱなしだった【CoMMuNE】も、今ではミラの手の中でその重みだけが増していく。ミラからの返信待ちといったところか。 【CoMMuNE】の白く発光する画面がミラの視力を削ぎ、ぼんやりとメッセージが霞む。瞬きを繰り返すとミラの乾いた目に涙の膜が張り、視界は正常に戻っていく。目をくらまされているのは、もしかしたら、自分も同じなのかもしれない。 15:05 送信 少し考えさせてください。  ミラはそれだけ打ち込むと、送信して【CoMMuNE】の電源を落とした。大きく息を吐く。それから、思い出したことがあって「あ」と口から声が漏れた。 「名前を聞くのを忘れていた……」
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