第四楽章 Tempestosoな夜

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 考えさせてください、という文句のなんて便利で、なんて空虚な響きだろう。最初の一晩は頭を悩ませてみたが、思考回路は同じところを行ったり来たりするばかり。授業のない週末を迎え、時間を持て余したミラはあえてミラは母の家事手伝いで忙しく立ち働くことを選んだ。身体が疲れていれば、余計なことを考えずによく眠ることができるからだ。  その日も朝七時には起き出し、母が朝食を用意する横でカスタード・プディングの盛りつけにかかる。昨夜のうちにゼラチンを溶かしたプリン液を型に流し入れておき、冷蔵庫で冷やし固めたものを取り出す。そのままの状態で軽くお湯につけるのがきれいに型から取り出すコツだ。プリン生地の端をスプーンで押さえて型からはがし、硝子の器を型に被せ、ひと思いに上下をひっくり返す。慎重に型を持ち上げれば、重力に引かれて多少平たくなった円錐台がぷるんと揺れた。焦げた甘い匂いのカラメルソースが垂れるのを見ると唾が湧いてくる。  それにしても、朝からデザートつきとは優雅なことだ。家族全員分の盛りつけを終え、ミラはそんなことを考えた。メインはキッシュで、タルト生地から拵える手の込みようだ。オーブンからは卵が焼けるいい匂いがしていた。  父と、それから兄も匂いにつられたように起き出してきた。……これが、家族全員が一堂に会する最後の朝食だ。  コップに牛乳を注ぐシーファ・イゴールに、母が「何時に出るの」と訊ねる。ごくごくごく、とコップ一杯を三口で飲み干したシーファは、もう一度牛乳を注ぎながら、「正午過ぎの列車に乗るよ」と返事をした。  みながテーブルにつき、めいめいで祈りを捧げたあと、皿とフォークが触れ合う音が途切れ途切れにダイニングを支配した。ときおり、思い出したように父や母が何かを言い、兄が笑ってそれに答えた。ミラは終始無言だった。  シーファは自分勝手で奔放だ。今回の帰省も、事前にひと言あったものの詳細は知らされないまま帰ってきたかと思えば、昨日唐突に「明日、あっち戻るから」と宣言して母を驚かせた。  朝食を食べ終えたミラがダイニングを出て行こうとして、兄に呼び止められる。シーファのほうが先に食べ終えていたが、ダイニングで寛いでいて動き出すようすはない。もう帰り支度は整っているのだろうか。 「十一時半に玄関集合な」  有無を言わせない傍若無人っぷりが、いかにもシーファらしい。ミラは反論も面倒で首肯だけ返した。  指定された時刻の数分前に玄関へ行くと、シーファはすでに準備万端だった。いつかの雨の日に見た黒のトレンチコートを着て、同じく黒のキャリーケースを引いている。朝に着ていたラフな部屋着と打って変わって、髪もワックスで固めおとなの男の風格ただよう兄に少々まごつく。  駅まで父の車で向かう。自動運転は快適だ。急発進も急ブレーキもないし、AIが目的地までの距離や交通量、道の混み具合なども勘案して現在の最短ルートをはじき出してくれるので、何の憂慮もいらない。約束された安全に包まれながら、これもすべてコンピュータの恩恵かと思うとミラはやるせなくなった。  駅には十分ほどで到着した。改札前の電光掲示板で兄が乗る予定の列車を確認すると、どうやら少々遅延しているようだ。キャリーケースを引く兄が振り返って浮かべた笑みに、ミラは時間つぶしに付き合わされる覚悟をした。 「おまえは相変わらず、洒落っけがないねえ」  今日のミラは、スウェット生地のトップスにコーデュロイパンツを履き、フード周りにファーのついたダウンジャケットを羽織っている。たしかに、ふだん授業に出るときと代わり映えのしない格好であるが、兄の見送りのためだけに着飾る必要もないだろう。 「せっかく買ってやった服も、箪笥の肥やしになりそうだな」  シーファが苦笑しながら腕時計で時間を確かめている。ミラは初めて見る持ち物だった。駅構内の照明が反射して、手首で銀色に鈍く光る。 「とっておき(ヽヽヽヽヽ)のときのための服だと言ったのは兄さんだろう」  実際、兄からの呼び出し初日に頼んでもいないのに購入されたコートとセーターとスカートは、タグがついたままクローゼットにしまいこまれていた。ミラは一生着ることはないだろうと思っている。シーファは腕時計からミラへと流れるように視線を移してから、天を仰いだ。  雪待月も折り返しを過ぎて、いっそう北風が冷たくなる今日この頃だが、吐く息が白く立ち上るにはまだ早い時季である。しかしシーファの目には、自分の口から吐く白い息が見えているかのようだ。 「とっておきとは言ったが、いざそのときが来たら、着るのを躊躇うなよ」 「……そんなときが来るだろうか」 「来るさ。いやでもきっと」  シーファがしゃがみ込む。家を出る前に磨いてきたはずの革靴に、曇りを見つけたらしく短く舌打ちする音が聞こえた。 「べつに、めかしこむ場面を想定して言ったんじゃない。服は鎧だからな。ちょっと勇気が欲しいとき、自分を強く見せたいとき――そういうときに思い切って着ればいい」  革靴をしばらく点検していたシーファが諦めて立ち上がると、じっと兄を見つめていたミラと目があった。穴が空くだろう、とシーファは笑う。 「可愛い妹が、ようやく俺の良さに気づいたかな」 「まさか」  ミラは首を振って否定し、喉まで出かかった科白を呑み込んだ。……もしかして、今の兄さんの恰好も、鎧なの?  シーファの【CoMMuNE】に着信が入る。仕事関係の相手からなのか、電話に出た兄はワントーン上の愛想のよい声で対応する。兄の声自体は耳慣れているはずなのに、それは知らない旋律を奏でていた。  電話はミラが想定していたよりもずっと長引いていた。休日にまで電話がかかってくるなんてご愁傷さまだこと。そもそも、一流企業で若手ながら仕事を任されている兄が、まとまった長期休暇を取得したということは、その分休暇明けの明日からは溜まった仕事に忙殺される身となるのだ。その覚悟でわざわざ帰省した兄は、わたしを振り回していったい何がしたかったのだろう?  通話が切れたときには遅延していた列車の到着時刻が迫っていた。シーファはキャリーケースを持ち直し「そろそろ行くな」とだけ告げた。テンプレートな別れの挨拶も身体を気づかう言葉も、ミラを連れ回した謝罪も、一切ないのが兄らしいといえばそうかもしれない。  シーファは【CoMMuNE】で購入済みの電子切符を改札のリーダーにかざした。改札を通り抜け、靴音を鳴らしながら振り返ることなく片手を翻す兄を、ミラは目に焼きつけた。  一人父の車に戻って帰宅すると、ダイニングテーブルに兄の置き土産があった。職場に持っていくと言っていたパウンドケーキとマドレーヌが三個ずつ。ちょうど家族分だ。職場で配る分を数えて余ったから置いていくと書き置きが添えてあった。 「莫迦だなあ」とミラは書き置きに使われたメッセージカードを撫でた。書き置きの言葉選びがシンプルなのは、シーファの照れ隠しだと思うことにしよう。
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