第四楽章 Tempestosoな夜

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 昼食を一緒に食べようとマスカラ女子と影武者女子に誘われたが、丁重にお断りし、ミラは一人カフェ・テリアへと押し寄せる人波を逆行した。目指す場所は、以前レドと二人で向かって以来、二回目だ。 「医務室(メディカル・センター)」看板下のリーダーに学生証をかざし、ミラは中へと歩み入る。 「あら、ミラさん。また体調を崩したの?」  デスクチェアを回転させて入口を振り返った先生が、長い髪をシニヨンにまとめた小作りの顔に笑みを浮かべた。眼鏡の奥の瞳には慈愛が滲む。 「いえ」ミラはかぶりを振り、室内を見渡した。利用者はだれもいないようだった。ほっとひと息つき、先生のデスクに近寄る。 「先生、以前(おっしゃ)いましたよね。友人を大切になさい、と。……それを思い出したら、ここに来たくなってしまって」 「レドくんと何かあったの?」  先生はわずかに目を見張って訊ねた。見抜かれている。ミラの口から言葉よりも先に乾いた笑いが漏れた。 「わたしが、失望させたようなものです」  先生は顎に手を当て、何か考え込むようなそぶりをする。それからふいに立ち上がると、入口と対角に設置されたシンクで電気ケトルに水を注いだ。 「もしよかったら、ティータイムに付き合ってくれない? お店で出てくるようなものを期待されると困るけど、一杯ご馳走するわ」  先生が振り向いて片目を瞑ってみせた。ミラが頷くのを確認すると、先生はそのまま白衣を翻し、コーヒーサーバーをトリベットの上に載せた。アンティーク調の紅茶缶の蓋を開け、ティースプーンで茶葉を掬ってサーバーに落とす。透明なサーバーの底に茶葉はかすかな音を立てて降り積もっていく。  湯が沸くのに時間はかからなかった。電気ケトルにコーヒーサーバー――ティータイムと呼ぶにはちゃち(ヽヽヽ)な道具類であるが、そんな視覚的なちぐはぐさはミラにとって些末なことだった。注いだ湯が茶葉によって底から滲むように染まっていくのを、宇宙の神秘のように眺めた。いい香りが鼻腔を擽る。  蒸らすこと三分。揃いのティーカップだけは一丁前に陶器製の華やかな柄物が用意され、茶漉しで漉すと透き通った紅色がうつくしい。ミラは普段紅茶を飲まないのでよくわからないが、渋みがなく、上品な味わいだ。 「美味しいです」  頭を下げることで謝意を示す。  不思議なことに、紅茶を飲むと、ミラの中にあった不純物がきれいに洗い流されていくようだった。言うつもりもなかったことを思わずこぼしていた。……いや、ほんとうはだれかに聞いてもらいたかったのかもしれない。 「わかりあえていると、思っていました。甘えですね。自分の無力を棚に上げて……心にもないひどいことを言ってしまいました。赦されたいと思っているわけではありません」 「それは嘘でしょう」  ぴしゃりと返された。先生はまだ紅茶を味わっている。ミラのティーカップはもう空だ。 「……こう言っちゃ悪いけど、仲良くしたい人とはいくらでも喧嘩したらいいと思うのよ。喧嘩のしかたも、謝り方も、知らないで大人になるよりずっといいと思う」  先生はティーカップをソーサーの上に戻した。 「ミラさんにとって、初めてなのね。それだけ大切にしたい友人ができたことが。初めてが怖いのは、だれにとっても同じことよ。でも、恐れてはだめ。本音から逃げてしまっては、一生後悔してしまう」  先生の凛とした声がミラのカップいっぱいに注がれる。溢れて、こぼれて、ミラのこころに受け止めきれないくらいだ。 「でも、今のままで再び彼の隣に立つ資格はありません」  気がつけば唇を噛み締めていた。その傷跡を舐め、鉄の味がするものをミラはむりやり飲み込む。 「あなただけが変えられるのよ、ミラ・イゴール」  もう受け止める容量のないこころの器に、最後に一滴、言葉が突き刺さる。 「隣に立つ資格なんて目に見えないモノがほんとうにあるかどうかはさておき、もしそうなら――その資格のあるあなたになれるかどうかは、あなた自身にかかっている」  ミラはきゅっと唇を引き結ぶ。もう一杯いかが、と先生が二杯目を淹れてくれた。少し金臭さが混じったがあいかわらず優しい味がした。  授業をすべて終え、帰宅すると母が早くも夕飯の支度をしていた。 「今晩はローストチキンよ」  コートを脱ぎ、手伝おうと母の隣に立ったミラだったが、メニューを聞いて呆気にとられた。シーファが帰ったので、今まで奮発していたぶん質素倹約に努めるかと思っていたのだが、予想は外れる形となった。しょうじき家計が心配だ。  母は骨つき鷄もも肉の下ごしらえに張り切っている。鶏もも肉をフォークで数箇所刺して味を染み込みやすくし、塩胡椒をしてローズマリーをまぶす作業だ。ミラがキッチンに立っているほうが逆に邪魔になりそうだったので、今のところは席に着いておとなしく見守ることにした。  部屋でひさしぶりに研究に籠ろうかとも考えたが、今日のできごとを思い返し、医務室で先生に紅茶をご馳走になったことや、メイクをしたほうがいいと言われたことなど、とりとめもなく母に語って聞かせた。  母が作業しながら、詰めていた息を漏らしたように笑った。ミラが怪訝そうに首を傾げると、母は歌うように言う。 「まるで幼児がえりしたみたいだと思って」 「は?」  ミラは意味がわからず、言葉に詰まった。母は口元に笑みを浮かべたまま、遠くを見るような目つきになった。 「昔っから、ミラは自分の身に起こったことを何でも話したがる癖があったなあって、思い出したのよ。お兄ちゃんに虐められたときも、わんわん泣いて、こんなことされたあんなことされたって」  初耳だった。少なくとも、兄シーファの極悪非道の数々には、物心ついたときには口を噤んで耐えたほうが身のためだと悟りきっていたはずなので、母に告げ口していた記憶がない。 「あなたが熱中できることを見つけて、秘密をつくるようになって――大人になるってそういうことだけれど、なんとなく寂しかったのよ」  そう言う母の声は、上擦りそうになるのを抑えたような響きがあった。  鶏もも肉すべてに作業を終えたようで、トレーに並べた上からオリーブオイルを回しかける。そのまま三十分以上漬け込むそうだ。  たしかに今のミラには言えないことがたくさんあった。しかし、言いたいこともあった。医務室で、ミラはそれに気づくことができたのだ。 「母さん――」  一度口を閉ざす。意図したわけではないが、母の気を惹く効果があったようだ。下ごしらえが一段落して手を休めた母がミラの顔を覗き込む。 「知っていると思うけど、わたしには一生をかけてでもやりたいことがある。それだけ成し遂げられれば、あとはどうなったって悔いはないと思っていた。でも、最近になって、ほかにやりたいことができたんだ」  なりたい自分ができた。 「どっちもっていうのは、欲張りなんだろうか……」  普段親に対してしおらしい態度を示さないミラであるので、これを言うのはとても勇気がいった。母は数度瞬きをしたあと、うっすらと笑う。 「それはあなたが決めることよ」  予想していた反応と異なり、ミラはむくれた。頬杖をついていた腕をほどいて突っ伏すと、テーブルにくっつけた頬から体温がテーブルに逃げていく。 「大人はいつもそうだ。迷っているから話しているのに、突き放すようなことしか言ってくれない」 「そうね、他人は無責任なものよ」  母がミラに背を向け流しで手を洗うのが気配で伝わった。 「いくら血がつながっていても、母さんはミラの代わりに選んであげられない。どんなに歯痒くても、背中を押してあげることしかできないのよ」  水音が止んだ。 「だけどね、ミラ。わたしたちは受け止めてあげることならできる。ミラがつらいとき、寄り添ってあげることならできる。それを忘れないで」  玄関でドアが開いた音がした。ミラが上体を起こすと、ダイニングに父が入ってくる。遅まきながらただいまと挨拶する父に母が身を寄せると、何度か頬同士を合わせる。 「びっくりした。父さん、今日は早いお帰りだね」  母のあとでミラもチークキスを交わす。父は心外だなと笑った。 「今日は意地でも早く帰ろうと頑張ったからな。ほら、ケーキも買ってきた」  父が片手に提げていた箱を見せびらかすように掲げてみせる。ミラがきょとんとしていると、母が悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「あら、もしかしてミラ、今日という日を忘れているの?」  ミラは必死になって脳内から引っ張り出せるだけの情報を掻き集める。ええと、今日の日付は雪待月の―― 「誕生日おめでとう、わたしたちの愛しい()」  視界が父の着ているシャツのストライプ柄で埋め尽くされ、背中には衣服越しに母のふくよかな温もりを感じる。何かが喉に詰まって声が出ない。血流の沸騰する音が身体の内側から聞こえて、ミラは思わず目を瞑る。抱き締める父の腕が次第にきつくなり、ミラは酸素不足に陥りかけた。背中を叩いて窒息しそうなことを伝えると、ようやく解放される。今、きっと顔じゅう真っ赤だ。 「シーファが置いていったパウンドケーキとマドレーヌも、一緒に食べましょう」 「そうだった! 今夜は豪勢だね」  楽しそうな父と母に囲まれ、ミラはひとつ、歳を重ねた。  十八歳から、十九歳に。  もしかしたら神さまも、ミラに味方してくれているのだろうか。  なりたい自分へ一歩、踏み出す勇気を。  ローストチキンに特注のバースデーケーキ、シーファの置き土産。たらふく食べたミラははちきれそうな腹をさすりながら、シャワーの前に【CoMMuNE】のメッセージ画面を立ち上げた。決意が鈍らないうちに、送ってしまいたかったのだ。 20:23 送信 お返事が遅くなりたいへん申し訳ありません。きっと不安な気持ちを深くなさったことでしょう。 わたしの楽譜でよければ、ぜひ、お譲りします。詳しい打ち合わせをさせていただいてもよろしいでしょうか? 【CoMMuNE】と電波で繋がる先に、壮大な宇宙と、ワームホールがある。そして未来も。  ミラは未来を握りしめる。少しも取りこぼさないように。もう何も失わないために。
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