第四楽章 Tempestosoな夜

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 シャワーを浴びて戻ってくると、すでに返信が届いていた。相手が待っていてくれたと思うとしぜんに口元がほころぶ。 20:28 受信 ありがとうございます! あなたと繋がることができてよかった。  それからは、打ち合わせのためのやりとりが続いた。  計算では、ソウルブ彗星がこの星に最接近する日の夕方五時から夜九時までの四時間、ワームホールの磁場が比較的安定すること。多少の誤差を勘案して、実質現在(こちら)で行動できるのは三時間程度と目されること。ワームホールの大きさを計測したが、当初想定していたほど大きくならず、せいぜい一人か二人通るのがやっとであること。  音楽再興班で何度も検討を重ねた結果、時空を超えるのは一人に絞る方向で話がまとまっているという。  ミラは少々疑問に思った。突発的に開いた“穴”に文字通り身を投じるのであり、危険も伴うわけで大人数を引き連れていくことができないのはわかる。しかし、それにしたって一人では得るものが少ないのではないか? 少なくとも二、三人で赴き、おのおの分かれて行動したほうが効率がよさそうに思われた。  その旨を伝えると、相手からは明快な返答があった。 21:44 受信 ワームホールはそもそも凝縮されたエネルギーが発露したものであり、瞬間的に出現して消える可能性もありました。それほど脆く、不安定で、微弱な干渉にも数値を乱す恐れがあります。ワームホールへの負荷はできるかぎり最小限に抑えるべきです。 21:45 受信 そのためにも、あなたとメッセージを交わし、過去(そちら)のことをいちばんよくわかっている私が時空を超えることで満場一致しました。  そう説明されては、ミラも納得するしかない。たしかに、現在(こちら)をよく知らない人が来たところで右往左往するばかりだろう。  ミラはメッセージを再び目で追う。じわり、と胸に温かいものが流れ込む。やりとりを重ねた本人が、危険を冒し、時空を超えてやって来る。それが目的ではないにしても、ミラに会うために。  メッセージが新たに増えた。 21:46 受信 あなたにお会いできるのも、楽しみです。  ミラは、わたしもです、と打ち込んで送信した。  相手は実質行動できる三時間をどのように過ごすのか、まだプランを練っている最中だという。ミラの住所を訊かれたので答えたが、以前ミラが相手の国名を知らなかったことを思い出し、伝わるのか不安になった。それを告げると、過去の地名であれば公式な記録が残っているため検索可能だという。なるほど数百年もすれば地名も変遷するかもしれない。戦争があったのならなおさらだ。  詳細を詰めたらまた連絡を入れてくれることになり、その日はそれでお開きとなった。  翌日からは、一言でいうなら慌ただしい日々だった。  授業はいつもどおり寝て過ごしたが、終業後にマスカラ女子と影武者女子からメイクの手ほどきを受けた。初日にマスカラ女子にパウダーファンデーションをこれでもかとはたかれ、アイラインを引かれ、付け睫毛まで施されるとまるで別人のようだった。グロスで艶増しされた唇はべたべたして落ち着かない。マスカラ女子は満足気だったが、もう少し自然な感じにしてほしいとお願いした。それは結果としてミラを金銭的に助けることにもなった。メイク道具を借りてばかりもいられないので、一式揃えようと買い物に付き合ってもらったときに値札を見てびっくりしたのだ。ミラの懐はとたんに寂しくなった。  研究も再開した。メッセージ相手から、「もしよければ、あなたの研究の成果も見せていただけませんか? サンプルが多いに越したことはありません」と言われ、現金な話だが舞い上がってしまったのだ。その言葉に報いるためにも、少しでもサンプルを増やして力になりたいとペンを手に取りノートを開いた。空き教室での居残りはしないが、帰宅してから自室に籠って必ず一曲ぶんは集中して書き留めた。たまに波に乗ると夜遅くまでのめり込んでしまって翌朝がつらい日もあったが、未来からのメッセージを受信するまではこれが日常だったと思うと懐かしいものがある。  レドとは相変わらず会話もなく、女子に取り巻かれている光景もとんと見かけなくなった。ひょろりとして、背は高いが軟弱そうだった印象はいつしか消えていた。孤独でいることが自分の闘い方だと物語るような背中が、ミラには遠い。  早く、その背中に追いつけるよう、早く――!  メッセージ相手から最後の連絡があったのは、〈運命の日〉の二日前のことだ。相手も忙しいのだろう、要件は端的に記されていた。 14:16 受信 夜七時半に会いましょう。話ができる のは三十分が限度です。場所はあなたが指定してください。  授業中の受信だったが熟睡していてすぐには気がつかなかった。ミラは終業後、メイクのレッスン前に素早く返信を打つ。 16:07 送信 アストロ天文台にて。 「ミラ、今日でレッスンは最後にするからね」 「わかった、わかった。今行く」  送信を終えると、ミラは【CoMMuNE】を鞄にしまい、自分のポーチを取り出して友人二人が先に向かったパウダールームへと駆けていった。 「……うん、まあ、いいんじゃない? あたしはもっと盛りたいけどぉ」  マスカラ女子からそうお墨付きをもらい、ミラはせっかく仕上げたメイクをきれいさっぱり落とした。マスカラ女子がぶつぶつ言う。 「いつも思うんだけどぉ。きれいにしたんだから、そのまま帰ればいいのに」 「いいんだ。わたしにとって、メイクは鎧だから」  持ち歩いているハンドタオルで顔を拭く。 「きみの言葉を借りるなら、魔法かな」 「ミラってよくわかんない子ね」  遠慮なく口にするマスカラ女子の横で、影武者女子が「いいじゃないの」と窘めている。 「二人とも、付き合ってくれてありがとう」  ミラは心から礼を述べた。準備は整いつつある。  パウダールームから鞄を置きっ放しにしていた教室に戻る。マスカラ女子と影武者女子は連れ立って先に帰っていった。一人残されたミラは真っ先に【CoMMuNE】を確認する。まるで依存症だな、と苦笑が漏れた。 16:10 受信 了解(ラジャー)  これ以上のやりとりは不要だった。ミラはそのまま画面を暗転させる。メッセージ相手とミラ、志はひとつだ。  レドの頑なな背中を思い浮かべる。どうか凍った彼のこころを、溶かすことができますように。音楽の未来を救うことができますように。  そして、〈運命の日〉を迎えた。  小花模様のカバーで統一したベッド。初等教育機関への入学頃から愛用している机の上には、スリープ状態のラップトップ。部屋に備えつけのクローゼット。なんの変哲もないそれらの家具を威圧してひときわ異彩を放つのが、部屋の片隅で黒光りするダイヤル式耐火金庫である。  ミラは金庫の前で居ずまいを正すと、慣れた手つきでダイヤルを回して解錠する。  恭しい手つきで中から取り出したのは、師匠から譲り受けた数枚の楽譜が詰まったファイルだ。蓋を開け、枚数の確認がてら一枚一枚と別れを惜しんだ。  楽譜は経年劣化のためか白というより生成色をしている。どれもタイトルはわからず、なにかの楽曲の抜粋だとしても音符の法則が解明されない限りは手がかりに乏しい。それでも、これをもとに音楽を再現できた時代があったのだ。自分で演奏できる時代があった。  楽譜を破かないようにファイルにしまい、蓋をする。留め具をしっかりと噛ませれば、ちょっとやそっとの衝撃では中身が飛び出すことはないだろう。 「……ごめんなさい、師匠」  メッセージ相手からの要望は、質量のあるモノとして欲しいとのことだった。画像データとして受け取っても、また大戦のときのように消失してしまう可能性が否めないからだ。  ミラが生きる現在では、紙への需要が少ないせいで価格が高騰している。ミラは自身のこだわりで研究にはノートを使用しているが、それも親戚から進学祝いの貰いものだった。ミラの周りの学生たちで紙を使っている人は見たことがない。一昔前には、コピー機という機械で紙に書かれたものを簡単に複製することができたようだが、いまやそれも過去の遺物と化していた。公式の文書として紙が必要不可欠な役所に行けばあるのかもしれないが、部外者の使用は認められないだろう。  ミラはトートバッグに、ファイルと、研究用ノートを収めた。ミラは音楽を手放すのではない。未来に託すのだ。  姿見に全身を映す。シーファか買ってくれたグレーのセーターとベージュのスカート、そしてターコイズブルーが目にも鮮やかなコート。メイクは肌から浮かないナチュラルな色目を選んだが、唇には赤いルージュを引いた。髪もいつもより念入りにブローしている。  レドが見たら驚くだろうか。少しは見ちがえただろうか。  なりたい自分に――レドの隣に立つに相応しい自分に、なれただろうか。  レドにそう告げることができたら、形から入るんじゃなくて中身を伴えよ、と指摘される自分が想像できた。わかっている。だから少しだけ、背伸びしたいのだ。いつか中身も追いつくから、どうかそのときまで待っていて。  不思議なものだ。ミラにとって、音楽のことを考えることと、レドのことを考えることは、もはや別物ではなかった。音楽を愛するように、レドのことを愛している。  愛? 愛ってなんだろう?  ミラにはわからない。  わからないけれど、だからこそ、ミラは踏み出したい。その先の一歩を。 「母さん、ちょっと出かけてくる」  自分の部屋を出て階段を降り、リビングの母に声をかける。約束の時間の夜七時半に間に合うためには、もうそろそろ出発しないといけない。振り向いた母は目を丸くした。 「あら、夕飯は」 「帰ってから食べるよ」 「傘を持っていきなさい。今は降っていなくても、このあと降りそうよ」  せっかく何百年ぶりの彗星最接近なのに、ずっと天気が悪くて残念ね。母はミラの秘密を知ってか知らずか、そんなことを言った。ミラは微笑みを浮かべて誤魔化す。  玄関のドアを開けると、たしかに夜空には星ひとつ見えない。遠くの空ではときおり光の剣が雲を裂いて地上を貫く。遅れて鼓膜を震わす雷鳴。雲の流れが速いのは、上空で風が強く吹いている証拠だ。  嵐の気配がした。
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