第四楽章 Tempestosoな夜

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 アストロ天文台は、メテオロン百貨店などが建ち並ぶ中心街からは遠く離れ、住宅街を眼下に見下ろす小高い丘の上にある。屋上のドームに収められるは口径四十センチの反射望遠鏡。観測前には息を潜めるようにつめたい鏡筒を縮こめるそれが、コンピュータ制御により観測対象めがけ自動で向きを変え、旋回するさまは圧巻だった。教育機関との提携を密に行っているので、このあたりに住む学生なら一度は校外学習で訪れたことがある。エントランス前の広場にはモニュメント代わりに渾天儀(アーミラリ・スフェア)が設置されていたのをミラも幼心に記憶している。  そうはいっても訪れたのはだいぶ昔の話で、ミラも天文台までの道のりには自信がない。【CoMMuNE】のナビでルート検索にかけ、【A:muSe(アミューズ)】を介してナビの音声ガイドを頼みに、ひとり天文台を目指した。  住宅街も、ミラの暮らすエリアから離れると、そこは未知の領域だった。丘の傾斜を這うように同じような外観の建物ばかりが林立し、似たような色の照明が窓から漏れてミラの歩く急勾配の道を照らす。光と影を交互に踏みながら、ミラは冷たい外気に負けず火照った身体で足を踏ん張って坂道を登る。  ナビは便利だが、当たり外れもあるのが玉に瑕だ。徒歩には酷な終わりの見えない急勾配に、体力を消耗したミラを突風があざ笑う。舞い上がった土埃から庇うように顔を背け目を瞑る。風が弱まるのを待って目を開くと、頭上から常緑樹の丸い葉がいくつもいくつも降ってくる。根を張って崩れかけの山肌を支える木々は、梢が斜めに天を衝いて、ちょうどミラに覆い被さるような按配だ。はらはら、といのちを散らすように青い葉が視界を舞う。横殴りの風に枝はしなり葉が翻って、木々の輪郭が闇に融ける。  立ちすくんでいると、突如【A:muSe】から機械的な着信音がこだまして、ミラの肩がびくんと跳ねた。電話だ。落ち着け落ち着けと胸の中で唱えながらトートバッグを漁る。 【CoMMuNE】は楽譜のファイルと研究用ノートの下に埋もれていた。先にファイルを取り出し小脇に抱えてから、【CoMMuNE】に手を伸ばす。画面に大きく表示された「シーファ」の名前に安堵する自分が情けない。  現在時刻19:28の表示に胸が騒いだ。ナビの予想ではすでにアストロ天文台に到着しているはずだったのに、悪天候と急勾配の道のりに手こずってしまった。さっさと兄からの電話を終わらせて、待ち合わせ相手に遅刻する旨を連絡しないと。焦って耳に当てようとして、【A:muSe】が画面とぶつかり邪魔をする。片方を無造作に外してポケットにしまった。 「どうした?」 『……いや、さっき母さんからメッセージが来て、ミラがめかしこんで出かけたって……』  シーファにしては珍しく歯切れが悪い。ミラは何でもないことのように告げた。 「そのときが来たら躊躇うなと言ったのはおまえだろう」 『どこの馬の骨だそいつは』  シーファの語調ががらりと変わった。舌打ちがはっきりと聞こえる。ミラは兄の勘違いを察したが、説明を試みても兄は聞く耳を持ってくれない。ミラは諦めを通り越して呆れ、通話を切ってやろうとした。  そのときだ。  ミラの腕ごと【CoMMuNE】を引き寄せ、その通話口に口を寄せる者がいた――強い力に、ミラは為す術もなく流される。 「だれだ、貴様」  聞く者を怯ませる低く掠れた声。ミラを影のしたに覆い隠すように屈めた長身の背中。【CoMMuNE】の四角い光にもほんのり照り返しを見せる色素の薄い髪。  スピーカーからシーファの怒声が漏れる。しかし、ミラはそれを咎めることすらできない。ミラが呆然としている隙をついて、【CoMMuNE】を奪ったレドがそれを地面に投げ捨てたからだ。薄氷を踏んだような幽かな音を幕切れに、スピーカーから漏れていたノイズのような兄の声もかき消える。  猛り狂う風がミラの髪を嬲る。断末魔に似た甲高い咆哮が不安を増幅してひときわ闇が濃くなる。ミラの心拍数も上昇をはじめた。 「レド、おまえどうして……」 【CoMMuNE】という光源がなくなった今、視界に映るのはぽつんぽつんと道なりに続く住宅の窓から漏れる光と、それに勝る圧倒的な自然の闇と、どちらにも属さないレド・ギルヴァンの血の通った肉体だけだ。しかし、レドはいつぞやも見た氷の目をしていた。……そういえば、彗星は核の氷がとけてガスを放出することで、あのようにうつくしい尾ができるのだ。であれば、今のレドは地上に堕ちた彗星のようだ、とミラはとりとめなくそんなことを思った。掴まれた腕が凍傷を起こしたように痛い。  現実を逃避しようとする脳内でなんとか理性を掻き集める。なぜレドがこんなところに? このあたりに住んでいるのか? たまたま、ミラを見かけてここに来た?  それとも、後をつけられていた? 「それ(ヽヽ)を、どうしようとしていた」  レドはシーファに向けて放ったものと温度の変わらぬ低い声で、楽譜の入ったファイルを指す。レドには一度楽譜を見せたときに、このファイルごと鞄に入れて持っていった。見覚えがあってもおかしくない。ミラは何から話せばいいかわからず口ごもった。  レドははなから返答を期待してなどいなかったのだろう。微塵の躊躇いも遠慮も見せず、力任せにファイルごとミラから引ったくろうとする。さすがにミラも両手でファイルを握りしめ、全体重を後ろにかけて持っていかれまいとしたが、所詮は女の力では男に敵うはずがなかった。じわじわと、ファイルはレドのもとに引き寄せられる。ミラはなんとか巻き返そうと懸命に足を踏ん張ってはみたが、一緒になって引き摺られ、靴の踵で(いたず)らに地面を引っ掻いただけだった。  どこかで稲妻が走り、遅れて地響きが伴う。 「どうせ、さっきの男に渡すつもりだったんだろう。いくらやると言われた?」  レドの憐んだような、蔑んだような声が降ってくる。ミラはただひたすら悲しかった。駄々をこねる子どものしぐさで首を振る。ぽつぽつと降り出した雨がミラの頬や額を濡らし、眼鏡のレンズに水の粒がついてレドの輪郭すら歪ませる。 「ちがう!」  絶叫が隙を生んだのか、雨で滑ってミラの指先からファイルが弾かれる。ミラはそのまま後ろに倒れ込んだ。鼻先に湿ったアスファルトの匂いがした。  抵抗する力がなくなった反動で、レドも後ろへと体勢を崩して蹈鞴を踏む。ファイルがレドの手を掠めて落ちる。重力に引かれたファイルは、落下の衝撃とともに淡い飛沫を散らして地面を滑る。当たり所が悪かったのか留め具の欠片が地面に転がり、開いた蓋から、慣性に押し出されて楽譜が宙を舞う。  窮屈なファイルを飛び出しカビ臭いにおいを振り撒く譜面たちは、やっとみずから呼吸し、吹きすさぶ風に乗り旋回したり滑空したり、自由となった歓びに狂ったように舞い踊る。そのさまは明るい照明のもとに見えた生成色でなくて、漆黒の闇の中でぼんやりと白く浮かび上がる。あまりにこの世ならざる風情で、これはもしや幻影? ……そうでないなら、音楽の亡霊だろうか。今にも滅びようとしている音楽の、希望の光というべき寄せ集めの紙切れたちは、雨を吸い、その身から露を弾きながら、ミラの手の届かない場所へとそれぞれ散り散りになって消えた。  あっという間のできごとだった。ミラは立ち上がることも、声を上げることも、ひとひらの行方を追うことさえも、できなかった。  嵐が通り過ぎたあとは、降りしきる雨音だけがこの住宅地一帯を包み込むように支配した。ふと視線を下げれば、下ろしたてのコートは見る影もないほど土と水で汚れている。  すぐ傍で呻き声がして、ミラは焦点の定まらない目を虚ろに彷徨わせる。「俺が」「俺のせいで」「どうして」「何のために」などと片言を繰り返すレドのうわ言が、雨音の隙間を縫って鮮明に耳を打つ。ようやく見るべきものを認識したミラの網膜に、膝からくずおれたレドの姿がその像を結ぶ。  ミラは笑う膝を叱咤して立ち上がり、不安定な足取りでレドに真正面から近づく。レドの色素の薄い短髪から自重に耐えかねて雫が落ち、地面に吸い込まれる音が高く澄んで聞こえる。ミラはその場にしゃがみ込んでトートバッグからおもむろに傘を取り出すと、開いてレドに差しかけた。 「帰ろう、レド。そのままじゃ風邪を引く」  ほかに何を言えばいいのかわからず、ミラはそれだけ口にした。レドは言われた内容を理解できないというように首を捻った。ミラは諭すように「帰ろう」と繰り返した。  とたんにレドの顔が歪む。 「笑えよ。それか怒ってくれ。頼むから」 「だれもおまえを責めたりしない」  ミラは少し迷ったが、傘を地面に置くと思い切って両腕を広げた。優しく、壊れ物を抱きしめるつもりで腕を背中に回す。  思ったとおり、レドの全身は氷のように冷たかった。ミラの体温が急激に奪われていく。それでと構うものか、とミラはレドの背中で交差させた腕に力を込めた。  触れない距離にいたレドに、今初めて触れられたような、そんな気がした。  レドはミラの肩口に顔を埋めたきり、一言も口を利かなかった。口を開いたが最後、声を上げて泣いてしまうと思ったのかもしれないし、もしかしたら声に出さず泣いていたのかもしれない。いつもよりひどく無垢で、無防備で、幼い子どものようなレドがそこにいた。  それすら、ミラには愛しかった。  どれくらいそうしていたのだろうか。  雨の中、しゃがんだまま気を失うという器用なことをしてみせたらしい。ミラが覚醒したとき、すでにレドはいなかった。地面に置いておいたはずの傘をミラの肩に差しかけるという、申し訳程度の濡れない配慮を覗かせて。  このままではほんとうに風邪を引いてしまう。ミラは立ち上がろうとして、全身の骨という骨から軋むような音が鳴った。同じ姿勢でしゃがみつづけていたせいだろう。大きく伸びをして身体の強張りをほぐすと、少し楽になった。  破損したファイルと【CoMMuNE】を回収する。【CoMMuNE】は案の定スクリーンにひびが入っていた。電源ボタンを押しても何の反応もない。これは投げ捨てられた衝撃もあるだろうが、雨に打たれたせいもありえた。多少不便ではあるが連絡が取れなくて困る相手もいないし……  そこまで思案して、ミラの脳はようやく警鐘を鳴らした。  そういえば、いったい今は何時だ?  慌てて水溜まりを蹴って坂を登る。たしかナビの音声ガイドは、この一本道を登り切って右手がアストロ天文台の入口だと告げていた。息せき切って急ぐと、まだまだ遠いと思われた頂上にはものの数分で到着した。右手の門扉はまだ開いていて、来館者向けに本日のイベントを告知する電光看板に「一般公開 ソウルブ彗星観望会 19:00〜20:00」の文字がスクロールする。  しかし、敷地内に足を踏み入れたミラは、すぐさま一足遅かったことを悟った。天文台のエントランスに灯りは点っておらず、あたりは森閑として人けはない。ただ、先ほどまでそこが賑わっていた――そんな気配だけが、人いきれが過ぎ去ったあとの空気の中に残っていた。  渾天儀のモニュメント。丸い輪をいくつも噛み合わせて天球を象った金属製の模型だけが、つるりとした光を放っている。  だれが悪いというわけではない。レドはミラに不信感を募らせていたし、ミラはレドに真相を話さなかった。すれちがいが引き起こした不幸な事故で、未来から来る友人を裏切ろうという気持ちなど、ミラにはひとかけらもなかったのだ!   ……たとえ今ここでどんなに弁解したところで、それが伝わるはずもない。かといって、唯一の連絡可能手段である【CoMMuNE】は今、使い物にならない。わかっている。  どうしようもないことくらい、わかっている。  やりきれなさに、ミラは硬く拳を握った。掌に血が滲むのが自分でもわかった。              第四楽章〈完〉
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