最終楽章 Dal Segnoをもう一度

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 脳髄から足の爪先まで衝撃が貫いた。  レドが、あの日、アストロ天文台に現れた?  ピッチを上げて送り出される血潮の音が耳の奥でうなる。  ミラは影武者女子にむしゃぶりつく勢いで迫る。興奮からか動揺からか、発せられた声は隠しようもなく震えた。 「……間違いなく、七時半だったか?」  影武者女子はミラのただならぬ表情に少々怖気づいたようだ。のけぞって距離をとると、記憶をたどるように目線を上に遣りながら、思い出し思い出し、語った。 「わたしたち、エントランスの庇の下にいたの。ちょうど近くで稲妻が光って、一瞬昼間みたいに明るくなって。そのときに見えたの。門扉から中を窺うように覗いた顔が、レドくんだと思った」  ミラは浅い呼吸を繰り返した。動悸は鳴り止まない。五感ごと、あの日に呼び戻される(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)。うっかり飲み込んだ雨粒が舌に乗った甘みや、突風が吹いたときの身を切らんばかりの冷たさがまざまざと蘇る。  レドと楽譜のファイルを奪い合っていたときに、雷が落ちたのを、ミラも記憶している。 「そんなはず、ない。そのとき、わたしはレドと一緒にいて……」  影武者女子が目を丸くする。先の発言を取り消すように両手を振った。 「そうだったんだ! じゃあわたしの見間違いだね、きっと。……よくよく思い返してみたら、レドくんより幼い顔立ちだった気がするし、別人だったんだ」  影武者女子はそう決め込んだが、ミラの胸に巣食うわだかまりは、それで取り払われるわけもなかった。 「ほかにはだれも来なかったか?」  再度確認すると、それに影武者女子は深く頷いた。嘘をついているようには見えなかった。 「ミラ、顔、怖いよ」  マスカラ女子が太めのストローでカップの底に溜まったタピオカを一つずつ吸い出そうと格闘する傍ら、横目遣いでミラを窘めた。ミラも我に返り、素直に謝罪する。影武者女子は彼女本来のおっとりした笑みを浮かべた。 「わたしも、何も知らずに混乱させること言っちゃってごめんね」 「それにしてもさ、レド王子並みの顔面偏差値の人がこのあたりに二人もいるってすごくない? なんだっけ、世界にはそっくりさんが三人いるんだっけ?」  マスカラ女子は一人はしゃいでいる。ミラは愛想笑いでかわしたが、思考はずぶずぶと底なし沼にはまって身動きが取れない。  ミラは未来人との約束を交わした時点でレドとの会話は絶えていたし、そもそも約束についてだれにも口を滑らせていない。  偶然の一致? それとも、レドは何か(ヽヽ)知っている? 「ミラ、ほんとうに何も食べないの? ひと口いる?」  マスカラ女子と影武者女子が、それぞれひと口サイズに切ったパンケーキを差し出してくれた。マスカラ女子のほうはつややかな赤色のベリーソースがふわふわの断面に染み込み、甘酸っぱいにおいが鼻腔を擽る。影武者女子のほうは濃厚なチョコレートソースを絡めたうえにトッピングのホイップクリームとアーモンドも添えられ、贅沢を味わえるひと口だ。きゅるるる、とミラの腹が小さく鳴った。 「じゃあ、ありがたく」  両方を賞味し、胃の中に燃料が供給されると、少しずつ、固まっていた臓器が機能していく気がする。それは思考を司る脳も例外でない。  やはり、もう一度レドと腹を割って話をしなければ。これまでの諸々の誤解やすれちがいは、お互いあえて言わなかったことがその一因だから。すべてはそれからだと思えた。 【CoMMuNE】で連絡がとれないなら、じかに会うしかない。ミラは終業後、そろそろ閉鎖しようとしている事務局の窓口に土壇場で駆け込んだ。先生からレドに急ぎの配達を命じられたと嘘をでっち上げ、届け出されているレドの住所を入手した。ネメシス(ストリート)2600番地。ミラはその足で窓口を飛び出した。  行き交う車のはやばやと点灯したヘッドライトが、歩道を歩くミラの足元を舐める。以前だったら、その隣にもうひとつ、のっぽの影が並んでいたはずなのに……ひとりきりの帰り道にももはや慣れたものだ。  レドとは分かれ道まで【A:muSe】を片耳ずつはめ、曲を分け合ってはあれこれ音楽談義に興じたのだっけ。ミラは思い出したように鞄から片割れだけになった【A:muSe】を取り出し、耳にはめた。レドは決まって車道寄りを歩くから、ミラが【A:muSe】をはめる耳もおのずと一択だ。  レドと一緒だと時間の流れが異様に速く、分かれ道までなんてあっという間だった。曲のきりがつくまでとか、レドが【A:muSe】を返してくれないからとか、いろんな理由を並べてみるけど、結局すぐに分かれず立ち往生するのは、レドとこうしている時間が好きだったからだ。レドが次の曲がり角を折れるまで見送るのも、自分だけの特権のように感じていた――そうだ、あの曲がり角だ。気づけば分かれ道は目と鼻の先で、ぽつぽつと灯りはじめた常夜灯が道しるべとなってミラを曲がり角へと誘導する。ミラは視界に浮かぶレドの残像を、夢遊病者になった気分で追いかけた。  角を折れたあとは見知らぬ街並みだ。ミラは標識を頼りにひとまずネメシス街を目指す。レドが日々眺めていた景色が、今、ミラの目の前にある。フェンスにスプレー缶で彩られた落書き、煙草のにおい、マウンテンバイクの急ブレーキ音、小さな子どもの笑い声。人の住む気配が色濃くなるにつれ、ミラの期待は高まる。  ネメシス街の標識を見つけた。あとはこの通り沿いを一軒一軒、虱潰しに当たっていくしかない。あるいは、通りがかった人に声をかけて尋ねてみようか。  ミラが迷っていると、住宅街らしい静寂を打ち砕く犬の鳴き声に思わず身構えた。ぴんと張ったリードに押し留められ不服そうに後足立ちになりながら、ミラに向かって歯を剥き出し警戒するように吠える。シェパードだ。繋がれているので安心だが、放し飼いにされていたら今にも襲いかかってきそうな迫力に、つい後ずさりする。  犬の鳴き声に釣られてお隣から中年女性が顔を出した。ミラは犬の咆哮に負けないように中年女性へと声を張り上げた。 「突然すみません。ネメシス街2600番地は、どちらでしょうか?」  中年女性はよりいっそうひどくなる犬の鳴き声にも慣れたようすで、玄関から出てきてミラに近寄った。 「2600番地……聞いたことがないわね。このあたりはせいぜい500番台までだと思っていたのだけど」  首を捻る中年女性に、ミラは愕然とする。 「そんな、まさか。わたしの友人がそこに住んでいると聞いて来たんです。レド・ギルヴァンといいます」 「あら! あなた、レドくんのお友達?」  中年女性の声の調子が明るくなる。どうやら知り合いのようだ。 「あなた、運がいいわね。わたし、お隣の犬が吠えるからって毎回ようすを見に来るわけじゃないのよ。このあいだの、嵐のあともそう。たまたま外に出たらレドくんがいてね……」 「もしかして、ソウルブ彗星最接近の日?」 「そういえば、そんなニュースもあったかしら」  中年女性は自分の話をするのが好きなようで、気を抜くと自分が話したい方向へと話をすり替えてしまう。ミラは自分が引き出したい情報へと話題をコントロールするよう努めた。 「レドは、何か言っていました?」 「そうねえ、特には何も……あ!」  中年女性がミラの片耳につけた【A:muSe】を指差す。 「その色、あなたの持ち物だったのね。どうしようか困っていたのよ」  そう言って、困惑するミラを待たせて中年女性はいったん家の中に引っ込むと、その手にターコイズブルーの【A:muSe】を持って戻ってきた。ミラは言葉を失って【A:muSe】と中年女性の顔を交互に見つめる。 「その嵐の日に、レドくんが拾ったと言っていたのよ。……あ、その前に、雨でびしょ濡れだったから家に上げてシャワーを勧めたことを話さなきゃいけなかったかしら。それで、レドくんが帰ったあとでこれを忘れていったことに気づいてね。レドくんとはばったり出会ったら立ち話をするけど連絡先は知らないし、そもそも拾ったと言っていたし、わざと置いていったのかしら、なんて考えちゃって。持ち主に返せてよかったわ」  ミラは【A:muSe】を受け取る。失くしたと思っていたものがひとつ、返ってきた。疵が少し増えたと感じるが、鮮やかなターコイズブルーはそのままに、宝石のような輝きは損なわれていない。レドが拾っていてくれただなんて。  ミラは藁にもすがる気持ちで訊ねる。 「あの、レドの住んでいるところをご存じだったりは……」 「ごめんなさいね。わたしもそれは知らないの」  中年女性は首を振った。申し訳なさそうに眉尻を下げるその表情に、ミラは自分の母と同じ母性を感じた。  中年女性に礼を述べ、追いかけてくるシェパードの吠え声を振り切るようにその場を立ち去った。近辺でもうしばらく聞き込みを続けたが、やはり2600番地という住所を訝しむ声や、レドを知らない人ばかりで、それ以上有益な情報は得られなかった。  帰宅したミラは歩き回った疲れを取るため早々にシャワーを浴び、兄シーファを見送ったときのような、スウェットにゆったりめのコーデュロイパンツに着替えた。もう外出しない体のいでたちだ。  母が夕飯の支度をしている傍ら、ミラは濡れた髪にバスタオルを被ったままで、テーブルに二つ揃えて並べた【A:muSe】に手を伸ばした。両手で握り込み、胸に押し当てるようにして祈る。レドに届くように。  レド。おまえは今、どこで何をしている?  ヴー、ヴー  ミラの【CoMMuNE】が新着メッセージを受信した。レドからであるわけがない。しかし、そんなありもしない希望を夢見るくらいしか、ミラには打つ手がないのだった。 【CoMMuNE】のメッセージを開いて、ミラは戦慄した。 18:01 受信 親愛なるミラ・イゴールさま きっとあなたは、私からメッセージが来ることはもう二度とないと思っていたことでしょう。 連絡がなくなって清々したと思っているのか、あるいは私と同様に、後悔に打ちひしがれているのか。あなたの胸中を推し量ることはできません。 しかし、叶うのなら、私はあの日をやり直したい。 これは最後の賭けです。          アストロ天文台にて。  息が止まるかと思った。  なぜ、いまさら? しかも、ミラの送信した謝罪に対する返信でもなく、まるで意に介していないかのような文面だ。  そして最後の「アストロ天文台にて」。「やり直したい」という言葉も勘案すると、導き出される答えは―― 「行かなきゃ」  ミラはつぶやいていた。訊き返した母に、「ちょっと出かけてくる」とだけ返すと、母は呆れたように言う。 「もう出かけないつもりでシャワー浴びたんじゃなかったの」  ミラは今の自身の服装を見下ろした。せっかく温まった身体も、外に出たら湯冷めしてしまうだろう。  でも。 「今行かないと、きっと後悔する。そんな気がするんだ」  ミラの瞳に宿った強い光に、母は幼き日のミラが音楽への興奮を閉じ込めた瞳の煌めきを重ねた。 「……髪はちゃんと乾かしてから行きなさい。それから、汚したコート、きれいにしてあるわよ」 「いい!」  ミラは感謝の言葉を呑み込んだ。慌ててドライヤーで髪を乾かす。どうせアストロ天文台までの道のりで風に掻き乱されるだろうから、ブローも大雑把だ。メイクもしないままダウンジャケットを着込み、ファスナーを閉めて玄関に向かいかけ、思い出してダイニングに取って返した。新しくした【CoMMuNE】と、片割れが返ってきた【A:muSe】。それらをポケットにしまいこみ、今度こそ玄関に移動すると動きやすいスニーカーを履いてドアを開けた。吐く息が白く舞い上がる。 「温かいご飯を用意しておくからね」  母からのエールにひとつ頷いて、ミラは一路、アストロ天文台へと駆けた。  道のりは頭で考えなくても身体が覚えていた。最初のうちは逸る気持ちも後押ししてハイペースを保って進んでいたが、急勾配にさしかかったあたりから膝ががくがくと震え出し、急速にペースが落ちた。しかし、〈運命の日〉には歩いても歩いても先が見えないと感じた距離もあまり苦にならなかった。ただ、相手がまだ待っていてくれることを祈るばかりだ。  アストロ天文台の閉ざされた門扉を目にしたとき、ミラの心臓は口から飛び出すのではないかと思われた。電光看板に明かりは一切ない。閉館日のようだ。ひと回り外周をめぐって常夜灯を頼りに人がいないのを確認し、待ち人は敷地内にいる、とミラは判断した。もはや全身が心臓になったかのように、鼓動は早鐘を打つ。  門扉は頑丈でしっかりした造りだが、高さはミラの身長ほどだった。多少の凹凸に足をかければ、ミラでも乗り越えられそうだ。  上がった息は吐き出すたび、暗い空に仄白く揺らいで溶けていく。  エントランスの灯りはついていない。それでも広場の中央よりじゃっかん建物寄りに配された渾天儀(アーミラリ・スフェア)の前に、人が立っているのがミラにもわかった。月が明るいからだ。
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