最終楽章 Dal Segnoをもう一度

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 見間違えるはずもない。他人の空似でもない。 「待ちくたびれたよ、ミラ・イゴール」  皮肉を利かせた口調も、肩をすくめる芝居がかったしぐさも、ミラのよく知るレドそのものだ。呆然として吐くミラの白い息の向こうに、レドの姿がけぶる。  レドがポケットから何かを取り出し、閃いた人工的な青白い光がミラの目を容赦なく射る。【CoMMuNE】とは似て非なる端末を操作して、表示させたメッセージ画面をミラに向けて差し出す。ミラが受信したものと一言一句違わぬ文面が並んでいた。 「メッセージを見て、ここに来たんだろう。それなら話は早い。俺はやり直しに来た。三年間(ヽヽヽ)ずっと、この時を待っていた」  レドの発言にミラは困惑する。 「三年?」 「そもそもおまえとメッセージをやりとりし、〈運命の日〉に楽譜を譲ってもらう約束をしていたのは、三年前の俺だ。……三年前、俺はたしかにここに来た。ひどい嵐だったことをよく覚えている。雨よりも風が強かった。……風がとぐろを巻いて、木立を吹き抜けると甲高い音がするのが、断末魔の叫びのようだった」  影武者女子がアストロ天文台でレドを見たと言っていた謎はこれで解決した。今目の前にいるミラの友人であるレドと、時空を超えて過去へとやって来た三年前のレド。あの瞬間、レドは実際二人いた(ヽヽヽヽ)のだ。 「……でも、どうやって、ソウルブ彗星の接近と関係なく、時空を超えたんだ。()のおまえは」  レドが見下すように唇の端だけを吊り上げて笑う。目が笑っていない。 「侮るなよ、未来の技術を。実際に時空を超える経験をした者がいて、各分野のエキスパートを揃え、三年の月日があれば、タイムマシンだって机上の空論じゃない」  ミラが相槌も忘れて聞き入っていると、レドは笑みを消し、一切への興味を失くしたようないつものポーカーフェイスに戻った。 「とはいっても、使用は一回きり、乗り捨て型を往復用に二台。それが三年で試作段階まで漕ぎ着けたせいぜいだった。俺が再び時空を超えることに決まったのも、被験者を兼ねていたという事情がある」  レドは一度言葉を切った。そして問いかける。 「俺は時空を超えるとき、あえてこの年このタイミングを選んだ。なぜだかわかるか」  レドが続けて何を言おうとしているのか、ミラには予感があった。それを察しながら、首を振る。それが結果として――レドの言葉をわかっていて止めないことが、結果として、レドをいかに傷つけるか、じゅうぶん承知している。  しかし、黙っていた。洗いざらい吐き出すことを、レドもきっと望んでいるから。  レドがゆっくりと腕を持ち上げる。持ち上げた腕の先で、その手がミラを指差す。 「おまえを出し抜くためだよ、ミラ・イゴール」  ここに来て初めて、レドの表情が醜く歪んだ。  自分の中で昂りを抑えられなくなったのか、レドは渾天儀のモニュメントの周りをぐるぐると、意味もなく徘徊する。一周しても、二周しても、足音は止まない。それどころかペースは速くなる一方だ。  その傍ら、レドの口は滞ることなく言葉を紡ぐ。まるで機械仕掛けの壊れた人形のように。  あの日からの三年間を、俺は忘れたくても忘れられない。 〈運命の日〉、ワームホールを通り抜けるという生きた心地がしない瞬間を経て、俺は過去へと飛んだ。たった三時間しか行動が許されないなか、ふらりと立ち寄った店内でBGMとして流れていた音楽に受けた衝撃を、どう言葉にすればおまえに伝わるのだろう。……そうだ、おまえが初めてピアノに触れたという瞬間に、よく似ているのかもしれない。あの、背筋が粟立つような、全神経を電流が走ったような感覚だよ。どうかわかってくれ。  おまえは音楽の現状に危機感を募らせているけれど、俺たちにとっては音楽が溢れる楽園だった。道を行き交う人はたいてい耳に小さな機器をはめて、音楽を聴いていた。何をしようとしなくても当たり前のように、寄り添うように音楽があった。……至福の時間だった。  俺は浮かれた気分のまま、のこのこ(ヽヽヽヽ)とこの天文台にやって来た。エントランスの庇の下に何人か人がいたのは落雷の光で窺えたが、俺はソウルブ彗星観望会の参加者だろうと当たりをつけて門扉から中には近寄らなかった。そのまま、俺は待ち人を――おまえを待っていた。  結果はおまえも知っているとおりだ。おまえは約束の夜七時半に来なかった。申し送りしておいた、八時までの三十分間、ぎりぎりまで粘ったが、来なかった。  音楽再興班のプロジェクトリーダーからは、時空移動後については事前提出したプランに沿って行動することが厳命されていた。時間を破るのはご法度だ。俺は楽譜を諦めた。……そのときの気持ちが、おまえにわかるか? それまで幸福を感じていただけに、断崖絶壁から突き落とされた気分だった。生まれて初めて、待つことしかできなかった己の無力さを思い知らされたよ。  未来に帰還して、プロジェクトリーダーにはありのままを報告した。俺は叱られる覚悟だったが、リーダーは何も言わなかった。仲間の態度も変わらなかった。それがよけい惨めだった。  ワームホールは俺の帰還後にあっけなく閉じてしまったので、再びおまえと連絡をとることはできなかった。メッセージのやりとりを何度も読み返しては、そのたびに、おまえのことを考えた。俺たちより遥かに恵まれた音楽環境への妬みもあった。期待させるだけさせておいて、俺を裏切った恨みもあった。そして思い出したのさ。音楽の散逸を防ぐことができなかった――俺たちから音楽を奪った者たちへの怒りを。おまえの音楽への真摯ぶった姿勢が音楽を救わなかった事実を。おまえを信用しきっていた自分の甘さにつくづく嫌気がさしたものだ!  もうだれも信用しないことを誓った俺は、おまえを出し抜くことだけを考えて生きてきた。タイムマシンの製造に献身したのも、すべてはあの日をやり直し、未来を変えるため。  ……そのはずだったのに、まさか。  ここに来て初めて、レドは言葉を詰まらせた。動悸を掻き乱すようだった足音はいつの間にかやんでいる。  レドは手で顔を覆い、天を仰ぐ。 「まさか、俺がおまえを待っているあいだに、ほかでもないこの俺(ヽヽヽ)が、楽譜が未来に渡るのを邪魔していたなんて!」  レドの絶叫が、闇にかかる月明かりのヴェールを切り裂く。ミラの肺までその刃で貫かれたように、息が苦しい。 「レド、もういいよ。もういい」  立ち止まったレドの前に回り込んで、ミラはレドの両肩に手を置いた。 「話してくれてありがとう。たしかに楽譜を失くしたのは惜しかったが、あの日も言っただろう、だれもおまえを責めないと」  レドが洟をすすった。髪色と同じ、色素の薄い瞳がミラへと戻ってくる。なめらかな湖面を湛えたような瞳に、今はさざ波が立っているのが見えた。  レドも、あの日を乗り越えようとしている。乗り越えるために、ここに来たのだ。 「それじゃあ、俺の気が済まない」  なおも渋るレドに、悪戯っけがミラの頭をもたげた。 「そこまで言うなら、その顔に一発お見舞いさせてもらおうか。それで、きれいさっぱり水に流そう」 「……そんなのでいいのか」 「レド、おまえほどの顔面偏差値は貴重らしいから、もっと自分の顔を大事にしろ」  ミラは冗談で流そうとしたが、レドがその気になってしまったので、ミラはしかたなく目を瞑るように言った。  言われたとおり目を瞑ったレドは、衝撃に備えて歯を食いしばった。  ……頬には衝撃どころか微風すら当たらなかった。代わりに耳に何かがはめ込まれる。擽ったい感触に目を開くと、浮かせていた踵を地面に直したミラが、ダウンジャケットのポケットからもうひとつの【A:muSe】を取り出す姿が見えた。色はもちろんターコイズブルー。レドは思わず自分の片耳に手を伸ばす。丸い形状とつるんとした感触は身に覚えがあり、よくよく指先でなぞると小さな疵が認識できる。 「これ……」 「おまえが拾っていてくれたんだろう。どうして直接わたしに返しに来ない」 【A:muSe】の片割れを自らの耳にはめて、ミラは【CoMMuNE】片手に笑う。 「さて、何が聴きたい?」  眼鏡越しの瞳には有無を言わさぬ光がある。ミラは頑固なところがあって、レドが過去(こちら)にやって来て、ミラに出会ってからずっと、それに振り回されてきたような気もする。そして、それを心地よいと思ってしまっているのだから、きっと自分も重症だ。 「任せる」
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