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【A:muSe】から音が生まれるときの高揚感は、恋に落ちる瞬間に似ている、とミラは思う。人は音に快楽を求めて耳を澄ます。その、飽くなき欲望の前の静謐さこそ、まさに恋する二秒前。たった二秒後に、世界は塗り替えられる。人はもう、音楽と出逢った歓びを、そのときめきを、知ってしまっている。だからこんなにも血が騒ぐのだ――
なんて、甘い思想を打ち砕く、耳元で機関銃をぶっぱなすように炸裂したような大音量のノイズ。見えない音は衝撃波となってダイレクトに外耳道を伝い、鼓膜と小さな三つの骨を力任せに揺さぶった。軽く眩暈がする。
「ちょっ、音量」
たまらずレドも音を上げた。腕を上から下へ動かすのは音量を下げるよう促すジェスチャーだ。そういえば、買い換えた【CoMMuNE】で曲を聴くのはこれが初めてだった。ミラは慌てて調節し、ちょうどいい音量に落ち着いて、ようやく今流れている楽曲に意識が向いた。カントリー・ミュージックだ。アコースティック・ギターのしらべが小気味よい。
隣ではまだレドが苦悶の表情を浮かべていた。ミラの視線に気づいて「何」と端的に訊く。一方でミラは、頭蓋をハンマーで打ちつけるような余韻は尾を引いているものの通常の聴力を取り戻し、音楽を楽しむ余裕すらあった。
「いや、つらそうだと思って」
「言っておくが、おまえの耳がイカれてるんだからな。いつだったか、パンク・ロックを聴いていたときもひどい音量だった」
「……そうだっけ」
ふっと、気が抜けたように相好を崩して、レドが渾天儀のモニュメントを背にして寄りかかる。ミラもレドの隣で、同じように体重を預けた。
肩と肩が触れ合いそうで、触れない。学校の行き帰りの道中、その距離感を意識することはなかった。それが今はどうだろう。身動ぎするだけでなにかが弾けそうだ。
ミラは降りかかる沈黙を避けようと、あえて茶化しながら雑談を振った。
「まあでも、わたしは最初から掌の上で踊らされていたというわけだ。空き教室で出会ったときも、わたしだと知っていて、声をかけたんだろう」
おまえ、こんなところで、何してんの?――レドのその科白を聞いたのは、実際には一年とたっていないはずだが、いろんなことがありすぎてもうずいぶんと昔のことのように思える。レドの硝子細工のような瞳は相変わらずなのに、映り込んだ自分の顔にどきりとする。あれ、わたし、こんな顔だったっけ。
三年という月日さえ持て余すほどに、絶望と悔恨を蠟で固めて火を灯し、消えないように、消さないように燻らせつづけたレドには、ミラとの出会いの場面なんて思い出すまでもないのだろう。告白する口調には淀みもてらいもない。
「同い年を装って近づこうとしていたのは認める。でも、あの日空き教室に立ち寄ったのは偶然だよ」
「へえ、意外だな。すべて計算ずくかと思った」
「通う学校は割り出せても、そのときのおまえの居場所をピンポイントに特定できると思うか」
「……たしかにそうだ」
月明かりはやさしい。どこも尖っていない。今もレドとミラのあいだに、月を砕いたひかりの欠片は粉砂糖みたく淡く音もなく降り積もる。
それを問うのは、少し勇気が要った。
「わたしのことが、憎かったか?」
長閑な曲を聴きながら、なんて物騒な話題を口にしてしまったのだろう。苦笑をこぼすと、レドも詰めていた息を漏らして空気が揺れた。白い息がほわりと舞う。
「憎かったさ。それこそ、おまえと会った瞬間、我を忘れて嬲り殺してしまうんじゃないかって思うくらい」
「おっかない奴だなあ」
ハーモニカ独特の甲高い旋律が楽曲に新たな息吹を吹き込む。カントリー・ミュージックはあくまでも穏やかに、なだらかに。
「でも、おまえと会って、話をして……しょうじき、わからなくなった。おまえがあんまり、メッセージでやりとりしていた当時の印象どおりで」
「当時の印象?」
「暑苦しくて、夢見がちで、感情論で動く莫迦かと思いきや意外と頭は悪くない。理性的な判断ができるし、真摯で、一途だ……そんなどうしようもない音楽莫迦」
「酔狂だっていうんだろう」
「もちろん」
レドの声は不思議だ。【A:muSe】から直接耳へと摂取される音楽さえおしのけて、予防線を張ったミラの心のやわらかいところへ、するりと入ってくる。そしてその甘美な響きが、意に反してミラの目頭を熱くするから、とっさに唇を噛んでミラは泣き出しそうになるのをこらえた。
触れそうで触れないレドとの距離、それを、ぶち壊す時が来た。
重心をずらして、横からタックルでもかますつもりで、勢いよくレドの肩口へと倒れ込む。受け止めたレドが着ているジャンパーの胸元に縫い付けられたロゴは、ミラの知らないものだ。
「じゃあ、どうして……少しでも信用してくれる気持ちがあったなら、どうして、話してくれなかったの」
視線をロゴから動かすことができない。レドの表情を知るのが怖い。
しばしの沈黙のあと、レドの声が降ってきた。
「打ち明けるつもりはあったよ。話そうとしたタイミングで横槍が入ったから、予定が狂ったんだけどな」
ミラにもようやく思い当たり、頭一個分高いところにあるレドの顔を見上げた。
それはたしか、帰り間際にシーファから最初の呼び出しメッセージを受信した日のことだ。レドは何か話したそうだったが、ミラがシーファのもとに飛んでいってしまったのでその話は聞かずじまいになっていた。
「……何というか、とりあえず、空気を読まない兄ですまない」
「お兄さん? もしかして、三年前の俺以外にやりとりしていたのも、〈運命の日〉の電話も?」
ミラが頷くと、レドはがくりと肩を落とす。
「いや、俺は最悪の事態を想定した結果、おまえが素性の知れないだれかに唆されて楽譜をそいつに渡すつもりなのかと……」
「それで、その最悪の事態とやらを回避するために、わたしの後をつけていたんだな」
ようやくレドの行動の意図が掴めてきたミラであった。ミラが約束の時間にアストロ天文台に間に合わなかったことにも非はある。極めつけは、兄から要らぬ電話がかかってきたせいだ。今すぐにでも兄を殴り倒しにいきたい。
アコースティック・ギターが同じ旋律を繰り返し、ハーモニカがやわらかく途切れる。音楽には、力があるとミラは思う。人の感情をコントロールする力。カントリー・ミュージックがもたらす、羽毛にくるまれ揺りかごで揺られるような安心感は、最後の一音が消えた瞬間に過去のものとなる。次の曲への期待と、不安と、突き放されたような虚無感が、短いしじまを支配する。
「それにしたって、わたしが兄とやりとりしていること、よくわかったな」
今この瞬間に相応しい、率直な疑問だ。音楽がつくりだす空気に左右されることのない、剥き出しのミラの言葉たち。
レドは淡々と答える。しじまが短いことを知っているかのように。そして次の曲のはじまりを急ぐかのように。
「俺が送った覚えのないタイミングに、おまえがメッセージ画面を見ていたから」
レドはけっして難解な言葉を使っているわけではないのに、ミラには理解が追いつかない。メッセージを送ったタイミングなんて、覚えているものか? しかも三年も前の――
「俺は一度見たものは何でも覚えられる」
【A:muSe】から、吹奏楽団の息の合った演奏がレドの声に被さる。行進曲だろうか、太鼓やシンバルを打ち鳴らすリズムに、ミラの鼓動のテンポもしぜんと押し上げられていく。
「何でも?」
「たとえば、授業で習った解法、三年前に俺がメッセージを送信した時刻、反対に受信した時刻。資料館で見た、音楽を記録した媒体から音楽を再生する仕組みの解説文だって一言一句諳んじられるし、おまえが見せてくれた楽譜だって、映像を焼きつけたみたいに細部まで余すところなく思い出せる」
血液が沸騰するとは、こういう感覚なのだろうか。気がつけばミラの心臓は痛いほどに、行進曲と同じテンポを刻んでいる。
「だから時空を超える役目に選ばれた、ともいえる。俺自身が保険だったんだ。俺が健全なる精神と肉体をもって無事に帰還できれば、何かしら持ち帰ることができる」
「でも、音楽再生の仕組みやタイトルもわからない曲の楽譜の一部だけ持ち帰ったって、何にもならないんじゃ――」
レドがミラの肩に手をやり、押しのけるように距離を取った。つかず離れずの、もとの距離に戻る。宙に浮いた手はどこに引っ込めればいい?
「発掘作業が難航して、苦節三年。俺たちにとっての現在……ここからすれば未来だが、調査に行った富豪の持ち物と目される地下倉庫で、CDやカセットテープが数点見つかった」
足音が聞こえる。BGMは行進曲だから。予定されていた必然だったのだろうか、それとも、レドが時空を超えたことがきっかけなのか。それはわからないけれど、未来は走り出している。
「音楽再興班として、俺がもう一度時空を超えることを了承した決め手だな。俺が過去で得た視覚情報を持ち帰れば、きっと音楽を再生する機器を再現することができる。見つかったCDやカセットテープの中に音源が記録されているかはわからない。ぬか喜びで終わるかもしれない。でも、俺たちはそれをやるしかもう道がない。そして運よく、記録されていた音源と楽譜が合致すれば、音楽の復興は一気に道が開ける」
レドはもう楽譜を失ったことを嘆くレドではなかった。ミラだって後悔を引き摺ることを望んでいないし、未来のことを見据えているレドは頼もしい。レドと音楽の復興に一路邁進できる喜びを噛み締めればいいはずなのに――どうしてこんなに胸が苦しいの。
行進曲はその名のとおり、行進するときに流れる曲だ。前進ばかりで後退などない。もう後戻りはできないのだ。パーカッションが、華々しい演奏が、ミラのこころだけ置き去りにして背中を押す。音楽はこうやって人をコントロールする。がんじがらめに。
「おまえの研究成果も、役に立つかもしれない。俺はずっと隣で見てきたからそれも覚えている。資料館だって、おまえが連れていってくれた。おまえが全部、俺に与えてくれた。まさしく、おまえは救世主だったよ、ミラ・イゴール」
トランペットがミラを祝福するように盛大に吹き渡るが、それがこんなにも胸をざらつかせるのはなぜ?
音楽の救世主になりたかった。それは本心だ。求めていた言葉をもらったはずなのに、ミラは振りほどかれた手がかじかんでしかたない。
レドの顔は晴れやかだ。
「これで俺は安心して、未来に帰ることができる」
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