最終楽章 Dal Segnoをもう一度

6/7
前へ
/35ページ
次へ
 両手に白い息を吐きかけながら、ミラはひとり、もうひとつの本心を一生かけて隠すことに決めた。せいぜい白々しくないように笑って、いつもどおりのミラを演じる。一度やったことがあるから、要領はわかっている。難しいことじゃない。  ミラとレドはそもそも、時空という壁に隔てられているのだから。 「じゃあ、おまえと莫迦やれるのも、もう終わりかあ」 「莫迦やっていたつもりはないが」  背伸びしてレドの額を指で容赦なく弾く。「痛っ」と声を上げて額をさするレドが愉快で、ざまを見ろ、と心の内で唱える。そういう言葉は口にしなくても伝わるものらしい。剣呑な目つきでレドに睨み据えられ、ミラはしんみりとした空気にならなくてよかったと安堵した。 「いつ、帰るんだ」  ミラは事務的な口調で質問する。もちろんレドからの返答も事務的だ。 「おまえから許可が取れたら今すぐにでも帰るつもりだ」 「許可?」 「おまえが持っていた楽譜や、研究成果の視覚情報を持ち帰って、俺たちの復興に役立てていいかの確認だよ」  そんなもの、いちいち確認をとらなくたって許可するに決まっている。それが未来の音楽のためなのだから。ミラは頷くことで返事に代えながら、そう素直に思えることだけが救いだと考えた。 「そういえば、タイムマシンの実験も兼ねていたんだったっけ。近いうちに未来から気軽に過去に飛べるようになるとか」  探りを入れようとしたが、レドは途端に険しい顔つきになった。美人が怒ると怖いとはよく言うが、レドの剣のある顔つきも迫力があってなかなか恐ろしい。 「俺が発案したタイムマシンは、簡単にいえば何もない空間にむりやり穴をこじ開けて、そこに飛び込む仕組みなんだ。そもそも時空を(ひず)ませワームホールを貫通させるためには、莫大なエネルギーがいる。ここまで莫大だと、俺たちはそれを自然発生的に手に入れることはできない。俺がここにいるのも、きっと何かの犠牲のうえで成り立っている」  タイムマシンの実用化を躊躇う口ぶりに、レドの後悔が滲んでいるように感じたのは、ミラの気のせいだろうか。ミラはタイムマシンのことを気安く話題にした自分を恥じた。  それに、とレドは遠い目つきになる。その先に広がるのは、等級の明るい星が囁くばかりの味気ない夜空だ。 「ワームホールは、時空を超えるのに利用できると俺たちが楽観的に考えていたほど生易しい場所じゃなかった」  阿吽の呼吸というのか、ごくたまに、息をするだけでお互いに考えていることがなんとなくわかる瞬間がある。言いしれぬ共感と切望がレドの口を借りて言葉を紡ぐ。 「たぶん、あそこには、あのひかりも何もない場所には、強烈に他者を欲するエネルギーがあるだけだ。俺という境界がうやむやにされて……強く自分をもっていられなければ、呑み込まれる。危険だ。実用には向かない」  レドが額に浮かんだ脂汗を手の甲でぬぐう。ミラは何か言おうとして、耳ざわりはいいが気休めにしかならない励ましの言葉ばかり頭に浮かぶのを、首を振って打ち消した。 「今まで無事でよかった。今回も気をつけて」  ミラが結局それだけ言うと、レドは「おまえにしてはしおらしい」と気味が悪そうにしている。やっぱりレドは見た目にそぐわず女心がわかっていない。 「心配はいらない。もちろん俺は是が非でも帰ってみせるさ」  啖呵を切ったレドの表情は清々しく、何の不安も惑いもなさそうに見えた――だから、レドがちらりと端末に視線を走らせたのをミラは見逃さない。 「何か心残りでも?」  図星を突かれたらしい。ミラは唇の端を意識して吊り上げ、不敵な笑みをつくった。 「餞別だ。おまえにすべてもらったと言わしめたミラ・イゴールだ。何でも言ってみなさい」  これはミラにとって、精いっぱいの虚勢だ。レドはすべてミラが与えてくれたと言ったが、ミラからしてみれば、レドにはもらってばかりだった。だから、少しでも返したい。最後の瞬間まで。  せめて今だけは、大きな顔をさせてくれ。  レドは不本意ながらも根負けし、しぶしぶ口にした。 「これで、彗星さえ見られたら、完全にあの日の再現だと思っただけだ」  現在時刻は19:27。あの日約束した時刻とほぼ同じ……レドは思いのほかロマンチストのようだ。いけない、と思いつつ吹き出す。ミラが肩を震わせる間、レドはよほど恥ずかしかったのか終始無言を貫いた。  息を整えてから、ミラはもう一度夜空を見上げる。最接近から数日、この星から遠のいていくほうへ舵を切ったはずのソウルブ彗星は、もう見えないのか。あるいは、この空のどこかに潜んでいるとしても、もう肉眼では観測できないのか――そこまで考えて、もし見えたところで、レドとミラにはそうと見分けがつかないだろうと客観的な自分が囁く。 「彗星か……」  彗星の、けぶるような尾を引く姿を鮮明に思い浮かべる。それに相応しい、レドへのはなむけとなるもの。  わたしがレドにあげたいものって、何だろう? そう考えたら、おのずと答えが出た。  ミラはレドの腕をとり、強引に引っ張っていく。振り払われるかという心配はすぐ霧散した。レドはミラの意図が掴めず、されるがままになっている。 「こっち」  ミラの指差すほうへと向かう二人の足どりは軽い。BGMは行進曲だ。後戻りできないなら、ひたすら前を向いて進むしかない。軽やかで、晴れやかで、聴く者を鼓舞するメロディは、否応なくミラの感情を昂らせる。音楽はこうやって人をコントロールする。感情に理屈なんていらないのだ、それだけ人のこころは不確かなのだ、と突きつけてくる。音楽のなんて非情なことだろう――しかし、そんな一面もまた音楽の優しさだとミラは思うのだ。なぜなら、ミラは音楽の可能性を信じているから。  天文台の敷地の端にたどり着き、いまだ混乱の渦中にいるレドに顎をしゃくって灌木の茂みの向こうを促した。  灌木の向こうはなだらかな傾斜となっている。手前から、ミラが登ってきた一本道、傾斜に這う住宅街、そして中心街へとだんだん遠く、栄え、土地は開けていく。それらを順々に視線で追って、レドは瞬きも忘れて見入った。  中心街の常夜灯、そして住宅街から漏れる色とりどりの明かり……星々の輝きはひとつとして同じものがないように、家々の明かりにだって同じ色はない。月が照らす夜空よりも、眼下に広がる夜景のほうが遥かに明かりはひしめいて、さながら星屑を(ちりば)めたように絢爛豪華だ。  ミラはその瞬間を今か今かと待っていた。それを視界の端に捉えた瞬間、レドの背中を叩いて合図した。  目当てのものを指差す。列車が線路を滑っていく光景……列車のヘッドランプが描くひとすじの軌跡が尾を引き、眼裏に留まってなかなか消えない。一生忘れるもんか! ミラは宝箱に蓋をする気持ちで瞼を閉じる。 「ほら、レドにも見えただろう。わたしたちの彗星が」  隣のレドを横目で窺う。レドは少しのあいだ固まっていたが、次第に呆れたような、可笑しいような、ふわふわと定まらない気分に包まれるのがわかった。 「おまえ、よくこんな子ども騙しを思いつくよな」 「子ども騙しじゃないさ」  ふと視界にちらつく影がある。月のひかりより質量があって、でも風に簡単に煽られて下へ上へと舞い踊り、肌に触れればさらりと融ける。  雪だ。時季的にもあまりに早い初雪だった。  ミラは胸に込み上げるものをむりやり静めて、笑顔を繕う。夜空は晴れているのに雪が降るなんて……もしかしたらこの街全体が、レドとの別れを惜しんで流した涙が、凍って、結晶となり、雪になったのかもしれない。 「おまえに、この街で過ごしたことを、忘れないでほしくて」  上空から地上に近づけば近づくほど空気は温くなり、雪は舞い遊びながらほろり、ほろりとくずれる。花が花弁を散らすみたいだ。  レドがふいに腕を伸ばしてミラの耳朶に触れた。 「耳が赤い」  レドの声がいつもより低い。  触れたレドの指は冷えていたが、ミラの耳朶よりほんの少しだけ温度があった。そのまま指を滑らせ耳の輪郭をなぞり、裏側をゆるく撫でる。互いの温度が絡み合い睦み合って、同じ温度になるまでそう時間はかからなかった。  先ほどから派手に打ち鳴らされるシンバルの音が心臓に悪い。ミラの身体じゅうの血液が顔に集まる。 「く、擽ったい」  ふと、レドの指の動きが止まる。もう片方の手がミラの視界を覆う。レドの手の感触が消えない耳朶に熱い息がかかって、ミラの肩が跳ねる。困惑とも恐怖ともつかない感情がミラを襲う。 「え、何?」  身構えていたのに、結局レドは内緒話でもするように唇を耳に寄せただけで、何の秘密も打ち明けなかった。そのままレドの体温が遠のいて、両目を覆っていた手が外されると、レドの仏頂面が顕わになる。 「……何だったんだ、今のは」 「なんでもない」  レドは癪だから言わない、という科白を呑み込んだ。  チリチリと焦げつくような熱を持ったミラの耳に、雪が触れて跡形もなく蒸発して消えた。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!

41人が本棚に入れています
本棚に追加