最終楽章 Dal Segnoをもう一度

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 高く、空をも突き抜けるようなトランペットのメロディライン。足並み揃った靴音を思わせるパーカッション。膨れ上がった拍動が最高潮に達したとき、吹奏楽団の織りなす旋律は唐突に終焉を迎えた。つくりあげられた高揚は急激にしぼんでいき、過敏になった聴覚器官は雪が地面を叩くかすかな音さえいちいち拾い上げては脳に取り込んで、無音の隙間を埋めようとする。  ミラの全身は、レドの一挙手一投足に注目してもはや自分のものではないようだった。  レドが耳にはめていた【A:muSe】に手をかける。ミラは先手を打った。 「【A:muSe】はくれてやる。そのまま持っていってくれ」  レドが目を見開く。甘ったるささえ感じるターコイズブルーのそれは、レドの容姿をもってしてもあまりに浮いて見えた。それでも、愛おしむように指先を離して、レドはつぶやいた。 「いいのか」  いらない、と突き返されるのを覚悟していただけに、ミラは自身の悪癖を発揮して「片方だけじゃ使えないがな」とまぜっかえすことしかできない。それを嗤わず、レドは首を振った。 「いや、これがいい」  歌がはじまる前の息を吸う音が【A:muSe】から伝わり、全身が総毛立つ。ミラはいつの間にか、この一瞬だけでこの曲が何なのかわかるようになってしまった。レドとこの喜びを分かち合いたくて振り向くと、レドもこちらを見ていて視線が絡まる。  あ、きっと今、同じことを考えた。 「……せっかくだから、最後にこれだけ聴いていくよ」  レドは最後と口にした。もう一曲分だけ、傍にいられる。  重低音の男声が畳みかけるように歌詞を紡ぎ、一瞬にしてここは天文台の敷地ではなくなった。聴衆はミラとレドだけ。月のスポットライトが照らす主役のいない舞台に、ちらちらと舞う雪が視界を慰める。そして歌だけがそこにあった。いつかの帰り道でレドと一緒に聴いた、天才ヴォーカリストの代表曲だ。  歌は曲調が変わって一転、歌声に伸びやかさが増し、はたしてほんとうに同一人物が歌っているのか疑わしいくらいだ。掠れた声すら色香があり、脳は痺れたように耳からの刺激を甘受する。  この歌は、聴く者に服従を乞うわけではない。恍惚とすることを願うわけでもない。  このア・カペラの圧倒的な歌唱力の前には、人の評価のなんとちっぽけなことか。絶賛も否定も音楽談義も【W・M(ウィズミュ)】での再生回数もいらない。そこには純粋な魂の叫びがあるだけだ。  サビで男声は一気に高音域まで跳ね上がる。声が裏返るわけでもなく、自然とこの音域に手が届くのが、このヴォーカリストの天才たる所以だ。優しく、切なく、どこか哀愁ただようメロディをヴォーカリストは歌い上げる。  一言も交わさず聴き入って、ミラは一曲の短さを思い知る。まだ全然足りない。別れの言葉の準備だってできていない。  焦って口走ったのは、こぼすつもりもなかった本心の、ひとかけら。 「レド、おまえはわたしにとって、唯一で最強で最高の友人だったよ」  レドの顔を見ることはできなかった。隣で冷たい風に身をすくめた気配だけを感じる。 「俺にとってのおまえも、唯一で最強で最高の友人だよ」  それが最後の会話になった。  ブツッと、断線したような音がして。相棒を見失い混乱をきたした【A:muSe】の片割れの発する電子音がミラ一人に牙をむく。無機質で機械的なその響きはきっと【A:muSe】の電池が尽きるまで途切れることはないのだろう。  街並みの暗がりにひとつ、明かりが灯る。住人が帰ってきたのだろう、室内の照明が窓から漏れたのだ。その一点をじっと見つめ、ミラはワームホールをくぐって今にも未来に帰還しようとしているレドの旅路に思いを馳せた。 ツ――――――――――――  それから後のことは、よく覚えていない。気がついたら、自宅の玄関まで帰り着いていた。ミラを迎えてくれる外灯は月明かりよりも優しいオレンジ色だ。  ドアを開ければ、外気を遮断したぶんだけほのかに温かいと感じた。ミラの帰宅を待ちわびたのか、玄関、廊下、目につく照明はすべて灯っていてまぶしいくらいだ。  玄関ドアの開閉音を聞きつけて、母が奥のキッチンから出てくる。ミラはいつもどおり帰宅の挨拶をしようとして、声が出なかった。わなわなと唇が震える。あらあら、とまったく困ったようすもなく母は笑って、ミラを抱きしめた。 「おかえりなさい。よく頑張ったわね、ミラ。お腹が空いたでしょう」  キッチンのドアから焼きたてのパンの匂いがあふれてくる。コンソメが利いたオニオンスープの匂いも。母の腕の中で、ミラは糸が切れたように声を上げて泣いた。泣きじゃくった。母の腕の中、母の胸は、それが許される場所だった。  ミラは思い知る。やっぱり、いくら背伸びしたって、今のわたしはなりたい自分になりきれないままだ。……それでも、今だけは許してもらえるだろうか。無条件に自分を受け容れてくれる場所で腑抜けになるまで甘やかされることを。  もう一度、母が幼子(おさなご)をあやすように口にする。 「よく頑張ったわね、わたしたちの可愛い、可愛いミラ」  泣いて、お腹いっぱい食べて、また泣いて……その夜、ミラは泥のように眠った。夢すら見なかった。              最終楽章〈完〉
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