終曲

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終曲

 ひたひたと足音が耳に障る。  どんなに心を砕いても、人通りの少ない廊下で自分の足音を消すのはどだい無理な話だった。それはまるで自分が招かれざる者であると告げられているかのようだ。ときおり足早に通り過ぎる白衣の人。スポンジに水が浸みるように、余計な物音はすべて吸収してしまいそうな、一線を画した静けさ。消毒液のにおい。  病院を訪れるとき、ミラ・イゴールはいつも、言いようのない心許なさに襲われる。だから、目的の番号プレートがかかった病室の前にたどり着くと、思わずほっと息をついてしまうのだった。  ドア横の四角い装置にパスコードを入力してロックを解除すると、ドアは自動で開いた。中は個室で、奥の壁にひっつけて一台のカプセルベッドが拵えてあり、そこに老齢の男性が横たわっている。  老人はうとうとしていたようだったが、ミラがやって来たのに気づいて、薄く目を開けた。 「ずいぶんと久しぶりだね、こんな私を見舞ってくれる物好きなお嬢さん」 「わたしの師匠は、今までもこの先も、ずっとあなたひとりだけです」  ミラは殊勝な態度でお辞儀をして、ぎこちなく微笑んだ。  ミラと老人を隔てるカプセルはひどく薄くて透明だ。普通に会話もできる。遠目からなら、老人がカプセルによって隔離されているとは気づかないだろう。  医療技術は日々進歩している。ミラの祖母は入院してからずっと面会謝絶で、見舞と称して来ても隣の部屋の窓から寝たきりの祖母を眺めるだけで声をかけるなんて夢のまた夢だった。この老人が同じ病だというのは嘘ではないのだろうか。 「研究は、どうなんだい? 音楽を救う試みは、進んでいるのかな」  老人の問いに、ミラは顔を曇らせた。 「すみません。館長に謝らなければならないことがあって来たんです。じつは、楽譜を失くしてしまったようで」  老人の顔が曇った。ミラは背筋を伸ばし、九十度の角度で折り目正しく、頭を下げる。 「ほんとうにごめんなさい。館長にはよくしていただいたのに」 「……失くしたものは、しかたがない。きみに託したのは私だ。きっと、そういう運命だったのだろう」  最初のショックをやり過ごして落ち着きを取り戻したらしい老人は、詳しく説明を求めようとしなかった。ミラはほっとした。しょうじき、金庫の中にしまっていたはずの楽譜が、なぜなくなったのか、ミラにも覚えがないのだ。  昨日、何気なしに開けた金庫の中には、破損して空っぽのファイルだけが残っていた。不思議だったのは、それを見てミラ自身が取り乱さなかったことだ。そう、まるで楽譜が失われたことを知っていたかのように―― 「相変わらず、研究には取り組んでいますよ。わたしの研究成果が、この先、実を結ぶかはわからないですけど……モチベーションはすごく高いんです。たとえわたしが音楽を救うことができなくても、未来に託すことができれば、だれかがわたしのバトンを受け継いでくれればって」  時は待ってなどくれない。しかしなんだかんだいっても、ミラの胸で熾火が灯りつづけているうちは、きっと大丈夫だ。ミラの使命は、一刻も早く、多くの楽曲を書き遺すこと……手遅れになる前に(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)。ミラは強固な意志を込めて宣言した。  老人は目を細める。目尻に笑いじわが寄って、しわの多い顔がさらにしわくちゃになる。 「あんなに、音楽を救うのはこのわたしだ! って息巻いていた、きみがねえ。いったいどんな心境の変化が?」 「館長が、わたしにしてくださったことと、同じことをしたまでです」  ミラはそう言ってごまかした。心境が変化した理由……それを思い出そうとすると、視界に靄がかかったようになって、頭の奥が痛くなるのだ。 「でも不安もあります。ほかにもっとやるべきことがあるんじゃないかって」 「でも、きみ自身が決めたことだろう?」 「……過去のわたしが間違えなかったとは、言い切れないですから」  最初の出会いから縮んだように見える老人へ、ミラはゆっくりと近づき、そうと継ぎ目のわからないカプセルに手を這わせた。叶うことなら、カプセルに阻まれることなく、老人の手に触れたい。幼き日に、ミラの手を包んでくれた、大きな手に。 「自分に自信が持てないのかい」 「それ以前の問題です」  今のミラは、空っぽの意志だけ置いてけぼりにされているみたいだ。音楽再興のため、やらなければならないことははっきりと思い描いているのに、その根拠がまるでない。その一方で、とにかく研究を急げと身体が逸るのだ。  老人がカプセル越しにミラの手に手を重ねた。出会ったときにはあんなに大きく見えた手が、老いさらばえ、今ではミラの掌よりひと回り小さくなって、思うように動かせないのか小刻みな震えは止まらない。それでも、老人は必死に手を伸ばしてくれる。 「きみはまだ若いから、後悔することが怖いんだね」  ミラはきゅっと唇を噛んだ。この人は病床に就いてもなお、わたしを導いてくれる。 「何度でも間違いなさい。いくらでも迷いなさい。きみはまだ何も失っていない。失ったと思ったとしても、それはきっとささいでちっぽけなものだ。……私に恩義などは感じてくれなくていい。きみの言葉を借りれば、きみは私のバトンを受け継いでくれた。それだけで私はもう充分だ」  噛み締めるように言い含めてから、老人はミラから視線を外し、疲れたようにベッドに沈み込む。そして、唐突に「すこし、昔話をしようか」と口にした。ミラが驚いて二の句を継げずにいると、老人の視線が戻ってきて再びミラに焦点が合う。爛々とした瞳の輝きはまるで子どもの目のようだった。心なしか肌のハリつやも若さを取り戻し、顔色もよくなったように見える。 「自分の決断を死ぬまで後悔することになった、ある若者の話だよ」  その若者は、両親共働きの、ごくごく庶民的な家庭に生まれてね。ありふれた、ほんとうにどこにでも転がっているような少年時代を過ごした。隣の家に住む幼馴染みと、日が暮れるまで遊び回って、泥だらけで家に帰ってはまァこっぴどく叱られる、そんな毎日だったよ。  そうだね、ひとつだけ、少年に特別な何かがあったとするなら……彼の幼馴染みが生まれながらに透き通るような声を持っていて、なおかつ抜きん出て歌がうまかったことだろう。それこそ少年時代は、決まった日に礼拝に行って賛美歌を斉唱するたびに、幼馴染みは天使の歌声だと囁かれた。そんな彼の名声は、声変わりを経験して声質が変わってからも途絶えることなく、むしろ深みを増した重低音と艶のある高音域を神がかり的に使い分けて聴く者を圧倒したものだ。彼は天才だったのさ!  さて、少年には何十年もずっと色褪せることない日の記憶がある。まだ声変わりを迎える前のこと、その幼馴染みにせがまれて、少年はピアノをはじめることにした。せがんだ理由はたしか「一人で歌うのは寂しいから」だと幼馴染みは言ったかな。それ以来、二人は暇があるとピアノのある部屋に行って、少年がたどたどしく弾くのに合わせて幼馴染みが歌った。下手くそだったわりに、少年も幼馴染みの歌に合わせて弾いていると大人から上手だねと褒められて、きっと調子に乗ったんだろう、あっという間にピアノにのめり込んだ。二人の青春は、歌とピアノのためにあったと言ってもいい。  高等教育機関への進学を機に進路が分かれた二人は、それでもひとつの約束を交わしていた。お互い、歌の道、ピアノの道で有名になって、大きな舞台で再会しよう、とね。  幼馴染みは、モラトリアムで選択肢を増やすことをせず、いきなり音楽の世界に飛び込んでいった。天才だった彼は見る間に頭角を現し、発売した彼の歌のCDはヒットチャートの連続という快挙を成し遂げた。あっという間に有名ミュージシャンへの階段を駆け上がり、世間で彼の名を知らない者はいないとまでいわしめた。  少年はどうなったのかって? ……ちょっと落ち着きなさい。まだまだ先は長いよ。ええと、どこから話そうかな。少年……いや、もうこの歳じゃ青年といったほうがいいね、彼は幼馴染みに比べてかなり遅れをとっていた。音楽科への進学を志望したが親に反対され、滑り込んだ進学先で出会った友人たちとグループを結成した。ピアノではなくキーボード担当だったがね。あちこち回りながら自作の曲を披露し、そのグループの名を轟かせてみせるはずだった。結局、思うような結果は残せず、ただただ幼馴染みとの距離は開く一方さ。  今思い返せば、焦っていたんだろう。メンバーを介して知り合ったアマチュアの自称ミュージシャン仲間で集まって、今後どうするべきか夜通し語り明かしたものだ――いやはや、そう言ってしまえば聞こえはいいがね、酒が入っちゃ建設的な意見が出てくるわけもなし、呑んでは自分たちの目指す音楽の良さが理解されない嘆きや愚痴をこぼすだけの、内輪の惨めな慰め合いに過ぎなかった。そうこうしているうちに、一人、また一人と仲間が減り、残ったメンバーはますます酒に溺れた。ときには、今流行りに乗ったミュージシャンを揶揄しては、あいつはわかってないだの一年後には消えているだの、散々に扱き下ろして憂さを晴らした。憂さ晴らしの対象には青年の幼馴染みも含まれたり、そうでなかったりした。……厭な記憶だよ。  ある日、皆ひどく酔って冷静さを欠いているときに、にやにやとした笑みを浮かべて、ひとりが閃いたと言ってきた。無料でなら、おれたちの曲だって聞いてもらえるんじゃね? 彼はそう言った……それは名案のように思われた。最初のとっかかりが無料だからにあっても、聞いてもらえればきっと、自分たちの目指す音楽の良さがわかってもらえる。応援してくれる人が増える。そんな甘い考えだった。止める者はだれもおらず、翌朝になって酒は抜けても酔った思考回路は戻らなかったのが、今となってはちゃんちゃら可笑しいが、青年たちは無料での楽曲配信に向けて着々と準備を進めた。  そうして、彼らは無料音楽配信サイト【MBY!(エム・ビー・ワイ)】を立ち上げるに至ったわけだよ。
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