41人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ
帰り道も、ミラはレドに【A:muSe】を片方奪われ、同じ楽曲を聴いて語り合いながら歩いた。歩道を我が物顔で行く二人を、車道では全自動運転装置搭載の自家用車が物音ひとつなく猛スピードで追い抜いていく。数年前に亡くなった祖母は、幼いころは車の騒音がうるさくて寝つけなかったとこぼすのが病床での口癖だった。ミラには実感の乏しい愚痴だったので愛想笑いでかわしていたことを、つい昨日のことのように思い出す。
車道と隔てるもののない、何とも殺風景な歩道には、自分たちの影がくっきりとよく映えた。傾く陽のひかりで、影は自分の本来の身長の二倍ほどに引き伸ばされている。レドなんて普段からのっぽだが、影だとさらにのっぽに見えた。
「あ、この歌」
無音から唐突に生み落とされた声が、ミラの注意を引く。ア・カペラだ。何十年も前に発表された古い曲だが、時を越えた現在でも知らない者はいない名曲だ、とミラは思っている。横目でレドの反応を窺うが、たいがい彼はポーカーフェイスであるので、表情から何かを読み取ることはできなかった。
一人のヴォーカリストが魂を削るようにして歌っている。苦しく、切なく、それでいてどこか優しい歌だ。息継ぎの音すらはっきり聞こえるのが、音楽にとって美徳かどうかはわからないが、だからこそ迫力があってミラは好きだった。
「どうして〈音楽は堕落した〉と言われるようになったか、知っているか」
ミラは自分の影が落ちる歩道の舗装しなおした跡を見据えた。レドに語って聞かせているのか、自分に言い含めているのか、わからなくなりながらも語らずにはいられない。
「そもそも、メディアは何の拠り所もなく〈音楽は堕落した〉と言いはじめたわけじゃない。あるミュージシャンの言葉がきっかけなんだ。……彼は天才と謳われたヴォーカリストで、音楽が消費されるだけの当時のありさまを嘆いていた。そして――具体的に何が彼を追い詰めたのかはわからないが――とうとう、彼は〈音楽は堕落した〉と走り書きされた書き置きを残して、暮らしていた賃貸の部屋で首を縊って死んだ」
レドが固唾を呑んだ。ミラは構わずに話を続ける。
「その知らせは国を越え世界中を駆け抜けた。彼が世界的に有名なミュージシャンだったからだ。……メディアは、彼の遺書を衆目にさらして、あまつさえ〈音楽は堕落した〉というセンセーショナルな文句に飛びつき、たいした精査もせずにその印象だけをばら撒いた! きっとメディアは正義の代弁者気取りさ。プライバシーなんてあったものじゃない」
彼は、音楽を貶めるためにあんな書き置きをしたわけじゃなかったはずだ、とミラは思う。彼が、どんなに忸怩たる思いでその言葉を遺さざるをえなかったのか、考えるだにやるせなくなる。
一気に捲し立てたせいで息が上がっていた。深呼吸のあと、ミラは声の調子を落とす。しぜんと乾いた笑みが漏れた。
「まあ、わたしが腹を立てる筋の話じゃないのだろうけど。……この歌は、彼が死を選ぶ一ヶ月ほど前、最後に発売した曲だそうだ。当時としては驚異的な数字を叩き出して、彼の曲の中でもベストヒットに躍り出た。そしてこの曲を最後に、音楽を販売するという文化そのものが廃れていったのは、……ある意味皮肉だな」
この曲は、彼の最期の足掻きだよ。音楽を省みなくなった世の中に一石を投じるためのね。……彼のことを教えてくれたあの人がこぼしたつぶやきを、胸の中で反芻する。
「こんなこと、授業でも教えてくれないだろう?」
サビに入り、【A:muSe】から聞こえる歌は最高潮の盛り上がりをみせていた。二人は口を閉ざし聴き入って、ヴォーカリストの冥福を祈る。ア・カペラが終わったあとも、しばし余韻に浸って夕焼けを見つめた。ひかりがいっそう強くなって、ミラは初めてこの見慣れた帰り道の景色を悲愴だと感じた。
先に沈黙を破ったのはレドのほうだった。
「おまえはたまに、なんでそんなにって思うことまで知ってるんだな。音楽以外の勉強では阿呆なのに」
「失礼だな。……まあ、この話は、ある人からの受け売りだ。わたしの師匠だよ」
レドが珍しく驚きを隠さずに目を見開く。
「あの、楽譜をおまえに譲ったっていう」
「よく覚えているな。師匠が、このヴォーカリストのファンだったらしい。ファンというか、発売されたものはすべて持っている、みたいなことを言っていたかな……。まあ、そういうことだろうと解釈しているが」
ミラは足元に転がっていた小石を蹴る。小石はミラの数歩先まで転がって、止まった。
「師匠が、このヴォーカリストの曲だけは心底感慨深そうに聴くものだから、わたしも繰り返し聴いて、気がついたら好きになっていた。昔の人が、これにお金を払ってまで聴きたいと思った気持ちが、わかるような気がしたよ。だから、」
ミラが小石に追いつくと、また蹴った。そうやって繰り返すうちに、足元が狂って進行方向から逸れるほうへと誤って蹴ってしまった。小石は車道に飛び出しタイヤに踏み潰されたか、運よく車体の下に滑り込んだか定かでないが、ミラは小石を見失った。
「だからやっぱり、わたしは今の研究を続けることで、音楽が消費されていく現状を止めなければならない」
ミラがそう決意を新たにしたときだった。それまで相槌を打つだけだったレドが、ふいに足を止めた。
じきに陽は沈む。たなびく雲がピンクから紫へとグラデーションがかっていく。
「ずっと言いたかったことがある」
ミラが目で先を促す。気負いはなく、淡々とした口調でレドは続けた。
「おまえは研究というけれど、それでほんとうに音楽の現状を止めることができるとは、俺には思えない」
レドがミラに意見してきたのは初めてだった。内心では驚いていたが、ミラはレドを見習い、できるだけ表情に出さないように努めた。
「それで? 何が言いたい」
「俺には、おまえが現実逃避をしているように見える。研究ばかりにかまけて、実際におまえが今向き合わなきゃならない勉強という問題から目を逸らしている。……言い方が悪いかもしれないが、おまえは研究という大義名分をもとに、音楽に没頭していたいだけじゃないか」
レドの言い分は的を射ていたし、そのぶん容赦がなかった。しかしレドはけっして批判めいたことを言いたいわけではなく、ミラの将来を慮ってのことだろう。その意図を汲み取れないほどミラは愚かではないし、レドとともにそれだけの時間を過ごしてきたという自負もあった。
ミラは言葉を探した。真摯な言葉には、こちらも真摯に返さなくてはならない。口にはしないが、これもミラが心に固く誓っている信条だった。
そして口から出たのは、
「わたしは本気だ。本気で、音楽を救いたいと思っている」
という、答えになっているのかもわからない答えだった。
この研究が、音楽の未来にほんとうに役に立つのか、ミラのやり方が通用するのか――それは、今のミラには与りしらぬことだ。間違うこともあるのかもしれない。不用意に豪語することは憚られた。……だからこそ、将来を案じてくれるレドの真摯な言葉には、ミラの嘘偽りない気持ちだけしか返せない。
どうか、これだけは、本物だと信じてもらえますように、わたしの真のこころだけは、疑われることがありませんように……
納得したとは思えなかったが、レドは「そうか」と言ったきり、それ以上追及してくることなく歩みを再開した。ミラは気が抜けたのと、真面目くさったことばかり発言していて照れくさかったのもあり、慌てて追いすがりながら冗談交じりにレドに憎まれ口を叩く。
「それに、わたしが見せるまで楽譜を知らなかったおまえに言われたくない」
どう切り返されるかと身構えたミラだったが、レドは固く口を閉ざしたままだ。……もしかして気にしていたのだろうか? ミラはいけないと思いつつ、内心は有頂天だった。ぐうの音も出ないとはまさにこのこと!
「何にやついている」
「べつに」
ミラは上機嫌に、レドはもともとのポーカーフェイスで、音楽を分かち合うひと時は続いた。分かれ道がきてもレドがミラの【A:muSe】をすぐに返してくれないのもいつものことだ。曲にきりがつくまで待ち、その後もさらに聴きつづけようとするレドから【A:muSe】を奪い返して、レドの背中を見送った。
西の空はいまだに赤いが、東の空へ首をめぐらすと視界は藍色に沈みはじめている。ふと、一番星の輝きを見た気がしたが、瞬きする間にそれはかき消えてしまったようだ。空目だったのか、あるいは、飛行機か人工衛星か――それもまた、ミラには与りしらぬことだ。
最初のコメントを投稿しよう!