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第二楽章 Andanteで進め
ミラ・イゴールは【CoMMuNE】片手に渋面をつくっていた。
テーブルには今朝の朝食として腹におさまる予定だったクロワッサン・サンドウィッチ。バターがたっぷりと塗られ、トマトのスライスとハムとレタスを挟んでいる。今朝は時間がなかったため、熱々のクラム・チャウダーだけ飲み干して家を飛び出そうとしたが、よほど後ろ髪を引かれていたのか、母が袋に入れて持たせてくれたのだった。あれほど食べたかったはずなのに……今のミラはまるで食事が喉を通る気がしない。恨めしげにクロワッサン・サンドウィッチを見つめるしかなかった。
時刻は十二時二十分を少し回ったところである。正午前後は人がごった返すカフェ・テリアも、この時分になるとちらほら空席が目立つようになる。店内は黒を基調としながら適度に白を配したシックな内装だ。大きくくり抜いた南向きの窓が自然のひかりを誘い込んで昼時は照明などいらないが、夕方から夜にかけては等間隔に吊るされたペンダントライトがオレンジ色に淡く灯って幻想的な彩りをみせる。壁沿いのカウンター席とは別に、オーク材のテーブルにチェア二脚を一組として、モルタル仕上げの床に窮屈そうに並んでいる。北側の壁に取りつけられた大型の液晶テレビからは、数百年ぶりの再来といわれるソウルブ彗星が一ヶ月後にこの星にもっとも接近するという話題のニュースが流れていた。
ミラは注文したコーヒーを啜り、再び【CoMMuNE】の画面に目を落とす。
朝から遅刻するか否かの瀬戸際を綱渡りし、授業中は睡魔との戦いをはなから放棄して。昼の食事休憩を迎え、ミラはやっと落ち着いて【CoMMuNE】の新着メッセージと向き合った。昨夜(というより今日未明)、ミラが寝入ったあとで一件、さらに朝の混乱のさなかにもう一件。どちらも例の送信者欄空白、差出人不明のメッセージだった。
内容は短い。
03:01 受信
届いていますか?
08:15 受信
お願いです。返信を望みます。
こうも立て続けだと気味が悪い。【CoMMuNE】の画面に手を滑らせ、ブロックの手順を踏む。「ブロックしますか?」というアラートが表示され、ミラは「はい」をタップしようとして……向かいから聞こえた物音に、慌てて画面を消した。
顔を上げると、向かいのチェアに座ったのはレド・ギルヴァンだった。手からテーブルに移ったトレーには、ミラの注文と同じ安さが売りの苦味が強いコーヒーと、大盛りのバターライスに煮込みハンバーグをトッピングした男子に人気のボリューム満点メニュー。ミラは見ただけでげんなりした。吐き気がしそうだ。
「次の授業まで十五分もないぞ。今から食べ切れるのか」
「余裕」
ふだんはクールなレドも、食事を前にしてはただの食欲旺盛な男子学生だった。見ていて気持ちのよい食べっぷりに、ミラは気が抜けた。とりあえずブロックするのは保留にしよう。
「おまえは食べないのか」
レドがクロワッサン・サンドウィッチを指差して言う。
「……じつはもう食べた後なんだが、買いすぎてしまって。よかったら食べるか?」
「食う」
底なし胃袋め。レドは終業後に〈音楽同好会〉に顔を出すくらいだから、その他大勢の男子のようにスポーツに打ち込んでいるようすはない。それなのにその長身とスタイルを維持できるのは何故なんだ。ミラはだんだん腹が立ってくる。
「……あ。いたいた。レドくぅ〜ん」
鼻にかかったような甘ったるい声がして、テーブルの隙間を縫うようにこちらに近づく二人の女子の姿があった。どちらも頬を上気させ、熱っぽい視線をレドに送る。
「あのぉ、次の授業のグループ課題のことなんだけどぉ〜」
ミラは話が長くなるのを察し、コーヒーを飲み干して空になった紙コップを片手に立ち上がった。もう一方の手で席を示す。
「よかったら、どうぞ」
「え、そんな、悪いですよぉ」
口ではさも殊勝そうに言っているが、横目で気にするそぶりが明らかにミラを邪険にしていた。
「いえ、わたしはもう用が済んだので。ちょうど出て行こうと思っていましたし」
「……いいんですかぁ? ありがとうございま〜す」
先ほどから率先して会話する一人が、悪いとはまったく思っていない顔で空いた席に腰かけた。もう一人の、影武者のように後ろをついてきていたほうは、どこからかチェアを持ってきて同じテーブルに加わった。……女子の間の力関係は恐ろしい。
レドがミラに助けを求める視線を送ってきたが、ミラは無視してその場を立ち去る。紙コップを指定の場所に捨て、瀟洒な外観のカフェ・テリアを出ると、次の授業の教室へと向かった。
レドとミラの関係は、周りの女子たちが勘繰ったり恐れたりしているような男女のそれではけっしてない。どちらかといえば、ミラはレドとの間に男女の域を超えた共鳴を感じていた。音楽に関する真面目な話も、莫迦らしい話も、レドとなら楽しかった。レドと好きな曲を共有できるのが嬉しかった。研究に励むミラをただ待っている教室で、うたた寝するレドの横顔が幼く見えること、色素の薄い髪が陽のひかりを透かして、たまらなく美しいこと――ちょっとやそっとの努力や妥協では得がたいものを、レドは自分に与えてくれる。
だからこそ、今回のメッセージの件を相談するべきか、ミラは悩んでいた。下手に打ち明けて心配させたくない。もう少し状況を見てからにしようと考える。
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