第二楽章 Andanteで進め

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 目が重たい。浮上する意識のなか、ミラはその感覚に引き摺られて、電池が切れたように眠る前のあれこれを思い出した。……よくよく考えれば、たった一晩返信が来なかっただけであんなに取り乱すなんて、羞恥の極みだ。頬に熱が集まるのが自分でもわかった。  そういえば、今は何時だろうか。ミラは目を開こうとして、依然として重い瞼がどこか腑に落ちない。これは瞼が腫れているというより、物理的に重力が加わっている……?  目の上に手をやる。人肌に(ぬく)まった柔らかい手触りは、ミラが自分で載せた覚えはないが、なんとなく邪まなモノではないと感じていた。まるで、だれかの優しい手に目隠しされるような――  急激に意識が覚醒し、ミラは飛び起きる。背を起こした反動で手をすり抜けたそれが胸から腹へと転がる感触があった。手探りで枕もとに置いた眼鏡を引き寄せ、顔の定位置に収めると、ようやく視界がクリアになる。脱いだ靴を履くのさえもどかしくて、ソックスのままリノリウムの床に降りた。  息を吸う。渇いた喉に空気の流れが引っかかるのを感じる。  乱暴にカーテンを開けると、レールで擦れて音が鳴った。 「レ……」  その一音だけ発して、ミラは口を噤んだ。自分のものと思えないほど掠れた声がショックだったからではない。デスクチェアを回転させ、ラップトップから振り返った白衣の女性以外に、人影が――呼ばわりかけた名前の人物が見当たらなかったからだ。  白い照明がレンズ越しに目を射てくらりとする。医務室という部屋の性質上、白やクリーム色といった清潔感を重視した配色が、よけいにまぶしい。 「ああ、ミラさん。起きたのね。体調はいかが」  近づいてくる先生に、ミラは食ってかかる勢いで質問をぶつけた。声はもとに戻っていた。 「もう大丈夫です。朝から押しかけてすみません。あの、先生がいらしたとき、わたしのほかにはだれも?」 「レドくんでしょう。いたわよ。一時間目が終わった時点で授業に行かせたの」  先生は明快に答えたあと、ミラの足元を見て、隠しきれなかったようすで笑みをこぼした。 「そのタオル、ここの備品だけれど、どこに消えたかと思えばあなたが使っていたのね。一枚足りないと探していたのよ」  ミラは落ちていたハンドタオルを拾い上げる。人肌程度に(ぬる)いのはきっと、ミラの体温が移ったせいだ。レドの手の温もりのはずがない。ミラは無言で先生に返して、医務室を出るという意思表示に代えた。  鞄を肩にかけ、室内から出ようというタイミングで、先生はミラを引き止めた。 「友人は大切になさい。ミラ・イゴール」  それはレドのことだろうか。ミラは先生の意図を図りかねたが、異論はなかったので頷いておく。先生は満足したようで、「お大事に」と最後に付け足した。  ミラは一礼してドアをくぐった。ドアが閉まりかける向こう側で先生が手を振っている。静かに、ゆっくりとドアが閉まり、ドアについた小窓にミラの顔がうっすら映り込む。瞼の腫れも、目の下の隈も目立たなかった。  現在時刻を【CoMMuNE】で確認する。午前中最後の授業もあと二十分あまりで終わりを告げる、微妙なタイミングだ。  睡眠はじゅうぶんに確保できた。差出人不明の相手からの新着メッセージ表示を見て、今朝のように気が滅入るどころか、めらめらと反抗心を滾らせるくらいには、体力も気力も回復していた。いじけてうじうじしている自分はミラ・イゴールの名に恥じる。  ひとまず、ミラはカフェ・テリアへと足を運び、日替わりランチのナポリタンにヨーグルトを追加で注文した。トレーを受け取り会計を済ませたあと、ミラはもりもり咀嚼しながら【CoMMuNE】の画面を睨み据える。 08:23 受信 あなたは音楽を救いたいと思っているそうですが、具体的に現状のどこに課題があるとお考えですか?  また腹の探り合いか。相手がミラからの話題を逸らしたくてこの話題を振ったのか、それともミラの最後の質問だけ届かなかったのか、それはどう足掻いてもこちらには窺い知りようのないことだ。  ミラは真面目に返答すべきか、それとも昨日からのやりとりごとすべてデータ消去してしまうか、考えあぐねていた。  数分前に午前の授業終了のベルが鳴り、カフェ・テリアはちょうど今が混雑のピークを迎えていた。みな先に席を荷物で確保してから、決済機能も備えた学生証を片手に注文のための行列に並んでいく。今日のミラはテーブル席でなく壁沿いのカウンター席を陣取っていたが、ミラの右隣はいつの間にかだれかの鞄が占領していた。左隣の席がかろうじて空いている。  何の気なしにカフェ・テリアの入口に目をやって、レドが昨日の女子二人と一緒に入ってくるところが見えた。二日連続で捕まるとは運のないことだ。昨日の疲弊していたレドのようすを思い出し……今朝の礼を兼ねて助け舟を出してやろうかと、片手を上げて声をかけようとしたときだった。  レドが腕を伸ばして一組のテーブル席を指差し、そこにチェアを一脚足して三席分を確保した。女子二人が胸を撫で下ろして笑う。ミラの片手は中途半端な高さで宙を彷徨ったのち、トレーの横に戻された。 「あ、ここ、いいっすか」  面識のない男子が律儀にミラの左隣を示して訊いた。ミラはおもむろに頷きを返すだけだ。目は行列に並ぶ三人を追っている。  レドが愛想笑いしているのを、ミラは初めて見た。ミラからすれば、ぎこちなくて反吐が出る笑い方であったが、それを間近で受けている女子二人は蕩けんばかりの表情でレドを見つめる。  ナポリタンを巻きつけあとは口に運ばれるだけとなったフォークはぴくりとも動かない。  おまえ、そんな顔できたんだな。……わたしは、おまえの無理に笑う顔なんて、見たくもなかったよ。  レドたち三人から視線を外し、ミラは半分以上残っていた日替わりランチを五分で平らげると、その勢いで【CoMMuNE】にも返信を打ち込んだ。 12:14 送信 いろいろありますが、いちばんの課題は、音楽が過去に有していたはずの評価や価値を失い、単なる手軽な消費物として堕ちてしまったと世界的に認識されていることです。 12:16 送信 しかし、わたしはまだ音楽の可能性を信じている! 過去に失われた音源を復元するだけでなく、過去の技術や栄光を取り戻すこともできると。そのために自分にできることをやろうと思っています。  送信ボタンを押してしまってから、ミラは自身が進めている研究についても言及するべきかと考えたが、そこまで手の内をさらす意義のある相手かどうか判断しかねた。いったん保留にして相手の出方を窺うのもいいだろう。  ミラは空の皿が載ったトレーを片づけ、レドに声をかけることなく、カフェ・テリアを後にした。  終業後はいつもの教室に寄らず、ミラはまっすぐ家に帰った。昨日のように、いまだ何者か名乗らない相手からの返信がひっきりなしになるならば、研究に手をつけられないと考えてのことだ。しかし、帰宅してからもなしのつぶてであったし、返信が来ないなら来ないで、やきもきされられるミラなのであった。  返信は翌朝に確認した。 05:38 受信 ご立派な心がけですね。あなたのような人が多数いれば、あるいは…… 05:39 受信 あなたが現在聴くことのできる音楽の総数がわかりますか? 概算で構いません。ジャンル別でもわかるとなお一層よいです。  急にミラを持ち上げるなんて芸当をしてみせたのは、ご機嫌とりのつもりだろうか。ミラはふつふつと腹が煮え立ってくるのを我慢して抑え込む。  今回の件から活かせる教訓があるとしたら、返信の早さに拘って気を揉むな、というただその一点に尽きるだろう。たとえ返信にどれほど時間がかかろうと、相手のほうから交流を絶ってくることはまずなさそうだ。こうなったらとことんまで相手をして、むしり取れるだけの情報を得たら、こちらから音信不通になってやろうと考える。相手のダメージが大きければ大きいほど、ミラにとって爽快な復讐劇になるはずだ。 「今に見ていろ」  ミラは楽しげににやりと笑う。ミラと見知らぬだれか、二人の間のやりとりは、まだ始まったばかりだ。              第二楽章〈完〉
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