第三楽章 暴君と雪解けとaccellerando

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 眼鏡を求めて枕元にあるはずのケースを探したが、伸ばした手は空をつかむばかり。何かがおかしいと起き上がりざまに室内を見渡して、ミラは自分の部屋でないとようやく悟った。ここはリビング、横になっていたのはベッドではなくソファで、その絶望感といったら! あのまま寝てしまって、一度も目覚めることなく朝を迎えるとは。当然シーファが起こしてくれなかったことに怒りの矛先が向く。  幸い目を覚ました時刻がいつもより早かったので、ミラはすぐさまシャワーを浴びた。湯気に曇る鏡の中にいないはずの兄の面影を探せば、しぜんと目つきは険しくなる。  シャワーを終えると、ゆっくりしていたつもりはなくとも時間が押していた。ミラは朝食をすばやく胃に収め、鞄に【CoMMuNE】を放り込んで家を出る準備を整える。玄関に向かう途中で階段を下りてくる兄が視界に入ったので、ミラは思い切り睨んでやった。シーファはわかっていないような、寝惚けているような、締まらない顔をしていた。  土埃舞う通い慣れた道をずんずんと踏みしめながら、ミラは無意識にレドの姿を探した。土埃のせいか視界がけぶる。普段はただ存在しているだけで目立つひょろ長い人影は、前にも後ろにも見当たらない。今まで示し合わせて一緒に通っていたわけではないが、たいてい隣にはレドがいて、一緒に音楽を聴くのが日常であったのに。 「やっぱり、埋め合わせを先延ばしにしなければよかった」  そう独り言ちながら、ミラは足を速める。授業開始間際に教室に滑り込み、見かけたレドは女子が取り巻いていて物理的に近寄ることができない。  今日くらい(ヽヽヽヽヽ)、外野のあれこれを度外視して、自分を選んでほしいと思うのは、我ながらなんて女々しく、浅ましい考え方だろう。思考が渦を巻く。  気づけば昼休憩を迎え、シーファから待ち合わせの連絡が来ていないことをミラはようやく意識した。午前中に知らせてくれと頼み込んで以来その約束が守られなかったことはなかったのに、珍しいこともあるものだ。催促の連絡を入れようと【CoMMuNE】を取り出しかけて、ミラは妙案を思いつく。シーファが連絡を怠った過失を盾に、直談判して今日の予定を諦めてもらう作戦だ。  しかしその作戦は実行することができなかった。ミラが【CoMMuNE】の異変に気づいたのだ。真っ暗な画面はミラの情けない顔を映すばかりで、いくら触っても振っても落としても、発光してロック画面に切り替わるようすがない。試しに電源ボタンを押してみたが、一切反応がなかった。……電池切れのようだ。そういえば昨夜充電しないまま寝てしまったのだった、とミラは思い当たる。  これはチャンスだ。レドに端末を貸してくれと話しかける大義名分を得たのだから。  レドが昼休憩にはたいていカフェ・テリアに顔を出すことをミラは知っている。腹は空かないが、レドと話をするならそこに行くしかない。入口で待ち伏せていると、思ったとおり、昼飯を食べ終えたレドがカフェ・テリアから出てくるが、ミラに気づかずそのまま行ってしまおうとする。ミラは慌てて声を張った。レドがミラの声のする方向に振り返る。  永遠のような一瞬だった。  レドの氷のような視線が突き刺さる。瞬く間に緊張が走り、ミラの足は棒になったように動かない。  大股で残り五歩の距離が、二人の間にわだかまる。 「授業には(ヽヽヽヽ)欠かさず出席かい、ミラ・イゴール」  レドは笑ったが、皮肉めいた笑みだった。 「学生だもの、授業には出るさ……何が言いたい?」 「でも自主休業しているじゃないか、研究のほうは」  レドはおおげさにため息をつく。視線の動かし方、力なく下がる眉、すくめた肩、すべての仕草がいささか芝居がかって見える。  研究の件は、たしかに図星だった。しかし、昨日までそれを責めるようなことは匂わせなかったレドだ。ミラはうまい言い訳を考えようとして、次にレドが言い放った言葉に理性が吹っ飛んだ。 「いいご身分だな」  気がつけば一気に距離を詰め、レドの胸ぐらをつかんでいた。 「撤回しろ!」  無論、ミラに胸ぐらをつかまれたとて、動揺するレドではない。むしろ、超然としてミラの反撃を歯牙にもかけないようすに、ミラのほうが怯みかけた。しかし、ミラにも譲れないものはある。 「わたしの、音楽への敬意を踏みにじる奴は、だれであっても許さない!」  カフェ・テリアを中心としてちょうど混み合う時間帯だ。通りかかった人々の反応はさまざまで、知らん顔で通り過ぎる者もいれば高みの見物と決め込む者もいる。ミラからすれば総括して反吐が出る連中だ。ますます苛立ちは募る。 「だから、おまえのそれは、中身が伴ってないんだよ」  レドは鋭利な眼差しで整然と言い放つ。ミラの言い負かすための論理を。ミラの心を折るための刃を。 「音楽を救うとか抜かしながら、今おまえが必死になっているものは何だ? 研究そっちのけで、学校の行き帰りに音楽を聴くのもやめて、果てはどこぞの男と密会か? おまえの敬意とやらを疑いたくもなるさ」  レドは今や全身から陽炎(かげろう)のように不信感を立ち上らせている。色素の薄くうつくしかった髪さえ天を衝く勢いで、冷めた瞳と対照的に怒りに燃える焔のようだ。  悔しいことにレドの論理は至極正論だ。ミラに反論の余地はない。かといって、全面的にわたしが悪いのか? わたしだっていろんなものに振り回されていたというのに。それにレドの手のひら返しはなんだ。いつだったか、ミラの真のこころを伝えたときには、その想いは受け入れられたものと思っていた。  そのときの会話を反芻し、ミラは思いつくまま叫んでいた。レドが自分にそうしたように、今度はミラが、レドの心を折るための刃を放ったのだ。 「おまえがっ、現実逃避にしか見えないって莫迦にしたんじゃないか、わたしの研究を!」  それまでたいした動揺をみせなかったレドの目が、大きく見開かれる。瞳孔が一度これでもかというほど開き、そのあとゆるゆると収縮していく一連の動きが、よく見えた。  次の瞬間、ミラは己の失態を知った。  ……レドは今にも泣き出しそうな子どもの顔をしていた。嗚咽をこらえるように口元を引き結ぶ。そして、震える声で、ミラに投げかけた。 「おまえは、そんなふうに思っていたんだな。俺のこと」  ちがう。否定したいが、ミラの喉は張りついて声が出ない。緩慢な動きでかぶりを振るが、レドの昏い瞳はミラを視界に入れながら、すでにミラを映してはいなかった。  ちがう。おまえは、わたしにとって今でも唯一で最強で最高の友人だ。  声にならない叫びがミラの全身をつんざく。  レドはミラに背を向けた。それは、完全なる断絶を予感させた。 「もう、いいよ」  レドが立ち去ると、野次馬はつまらなそうに一人残されたミラにブーイングを浴びせる。ミラは憤慨する気力もない。レドを追いかける勇気もなかった。  時間が喧騒を押し流し、人を忙しない日常へと引き戻す。人だかりは三々五々に霧散していき、午後の授業開始のベルを聞いて、ミラは完全にひとりになった。  午後の授業を放棄し、ミラはそのまま帰路についた。帰宅するとシーファが驚いて出迎える。 「どうした、具合でも悪くなったのか」 「……待ち合わせはよかったのか?」 「え、今日から待ち合わせはなしってメッセージ送ったの、見てないのか」  シーファのほうが面食らって訊き返してきたので、ミラは「ならいい」とだけ短く答えて自分の部屋に引きこもった。  ミラは【CoMMuNE】を充電ケーブルに接続し、再起動するのを待った。そのあいだ、レドと過ごした優しく穏やかな時間が思い起こされた。終業後の空き教室で研究に没頭するミラとそれを傍で見守るレド、通学時の音楽談義、【A:muSe(アミューズ)】の連動が途切れることのない付かず離れずの二人の距離、初めて楽譜を見せたときに興奮で上気したレドの表情、「おまえは運命共同体」だと告げた初めて出会った日の会話――  ミラにとってレドは特別だ。それはレドが自分と対等に音楽を語り合える唯一の相手だったからだ。お互い半身であるかのように、同じ時を分け合って、同じ音楽に耳を澄ました。しかし音楽に対する二人の感性はまったくちがって、それについて議論をするのもまた興味深い時間だった。ミラの居場所は常にレドの隣にあった。  今日くらい(ヽヽヽヽヽ)、なんて真っ赤な嘘だ。いつだってミラはレドに振り向いてほしかった。そのことを今になって自覚するなんて。  なぜ、こんなことになってしまったのだろう。どうして、レドの不信感を……友人であったはずの、音楽をこころから愛する彼の言葉を、真摯に受け止めてやれなかったのだろう。  記憶のアルバムをめくるあいだに、【CoMMuNE】の充電量が七十七パーセントにまで回復したようだ。輝き出した【CoMMuNE】の画面には新着メッセージの通知が数件認められる。その中のひとつに兄からのものもあった。いちばん古い通知は、昨日の18:38となっている。うっかり寝てしまったあとで受信したものだろう。 18:38 受信 私たちは楽譜を知りません。ぜひ本物が見たい。どうかあなたのものを譲ってもらえませんか?  昨日までのミラであったなら、例の相手からこの返信に、罠にかかった! とでも声を弾ませ小躍りしたことだろう。今のミラはとてもそんな気になれない。  メッセージは、いつになく素っ気ない文面になった。 13:45 送信 正直に言います。あなたのことを信用できません。以前、わたしが名乗ったときにも、あなたはわたしを無視しました。今でもあなたはあなたを取り巻く音楽環境について詳細には語ってくれませんし、あなた自身のことを打ち明けてもくれません。名前さえ知りません。そんなあなたにわたしの大切な楽譜を渡すことはできません。  ああ、わたしの心は今とても荒んでいる。こんなふうに当たり散らすことしかできない。  そう思いながらも、ミラの指は内情を明かさぬ相手を責める言葉を綴り、送信ボタンを押した。まるで膿みを出す作業のようだった。  ミラにとって予想外だったのは、すぐさま返信が来たことだ。これで嫌われて、連絡がつかなくなってもしかたない、とまで悲観的になっていたのに。  相手からの返信は、そんなミラの予測と正反対のものだった。 13:47 受信 あのときはすみませんでした。こちらにも事情がありまして、名乗ることや詳細を明かすことが禁止されていたのです。今はあなたに、ほんとうのことを話す許可が下りています。  禁止? 許可?  ミラの脳内はもういろんなことでぐちゃぐちゃだ。 13:48 受信 私たちの試みは、過去と通信して今に失われたものを一部でも回復することにあります。 あなたからすれば私たちの時代は未来に当たります。つまり、私たちは、あなたより数百年先の未来を生きる人間です。              第三楽章〈完〉
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