序曲

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序曲

 やっぱりうちの子たちには、まだ早すぎたかしら。  来館当初こそ借りてきた猫のようだった兄は、ものの十分で興味が失せたらしい。帰りたい帰りたいと駄々をこね、それに耳を貸さないでいると一人で先に出て行ってしまった。放ってもおけないのでとりあえず旦那に後を追わせている。妹のほうはおとなしく私に手を引かれているが、眼鏡のレンズ越しに展示を見つめる目にとくべつ好奇の色はなく、欠伸を噛み殺している始末だ。  一家総出で訪れたのは、家から車を走らせ二十分ほどの距離にある、音楽資料館。国内最大級にして、最大点数の品揃え――ではなく、個人が趣味の域で経営する小さなコレクション・ギャラリーである。閉ざされたホールのような空間に、来館者は自分たち家族だけであり、BGMの一切流れない館内はしんとして自分たちの靴音ばかりが反響している。  わんぱく坊主な息子と、好奇心が人一倍旺盛な娘に手を焼き、音楽に興味を持たせたら少しは落ち着いてくれるだろうかと安易な気持ちでここを訪れた。しかし来館早々、私たち夫婦は自分たちのミス・チョイスを悟り、いたたまれなさに足がすくんだ。  展示資料は館の規模のわりに豊富で、ざっくりした分類のもと展示されてはいるものの、全体としてはミュージシャンが音楽にまみれて暮らす居室をそのまま開放したような印象である。ところ狭しと資料が展示されているさまは研究者や愛好家(マニア)にとっては垂涎ものかもしれない。……ただ、子どもには難解なしろものであることは明白であり、大人の私ですらよく個人でこれだけ蒐集したと感心はすれど興味は希薄だ。旦那なぞ、息子を追いかけるというれっきとした建前ができたことに嬉々としてこの場を逃げ出していった。  残された娘と口も利かず、淡々と順路に従って展示を眺めていく。今ちょうど足を止めたのは、かつて音楽を記録していた媒体たちの展示コーナーだ。CDやカセットテープ、レコードといった遠い文明の利器(ヽヽヽヽヽ)の数々が、ガラスケースを隔てた向こう側で息を潜めている。昔の人々は、こういった媒体に音源を記録し、複製し、購入して楽しんでいたという。今では考えられない話だ。 「家族連れとは珍しいお客さまですね」  私たち以外にはだれもいないと油断していて、その声に驚いた。  金属製の杖をつく音と、床を踏む靴音。それらがゆっくりと間隔を空けて交互に鳴る。音のする方向に振り返ると、おぼつかない足取りながら近寄ってくる老齢の男性の姿を捉えた。挨拶してみると、どうやらこの資料館の館長であるらしい。 「子どもに、音楽に興味を持ってもらいたくて連れてきたんですが、……思ったより難しくて」  言い訳するような気持ちでそう口にしたが、館長に気分を害したようすはなかった。 「そうでしたか。では、そちらのお嬢さんも楽しめそうな展示にご案内いたしましょう」  館長はそう請け合った。曲がった背中をさらに屈め、人見知りして私の後ろに半分隠れている娘に目線に合わせると、目尻を下げて優しい笑みを浮かべた。 「こんにちは。音楽の未来を救ってくれそうな、可愛いお嬢さん。今日の出会いに、神に感謝を」  館長が先導する間、足並みを揃えることになる。ずっと無言なのも気詰まりでこちらから質問する。 「ここに並んでいるCDやレコードって、すべて本物なんですか」 「もちろん本物ですとも。ですが、本物かそうでないか、そのちがいに今やたいした意味はありません」  館長は音楽を記号化して記録していた楽譜と呼ばれる遺物や、木や金属でできた大小さまざまな展示物――画像でしか見たことがないが、おそらく楽器と総称されるものたちだろう――を素通りしていく。 「歴史的な価値はあるかもしれません。当時を今に伝える貴重な遺物です。しかし、音楽を楽しむという括りでみれば、どうでしょうか。なぜなら……これらはたとえ音楽の記録を残していても、実際に聴くことはかなわない……再生する機器が今に伝わりませんから」 「再生できなければ、記録に価値はないと」 「音楽は、聴くことができなくなれば、それは死と同じです」  掠れたような、それでいて確信に満ちた囁きすら、水を打ったような館内では容赦なく耳に刺さる。思わずため息が漏れそうになったのを、館長が振り向いたので慌ててこらえた。 「お母さんは、普段どうやって音楽を聴かれますか」 「……もっぱらインターネットですね。お恥ずかしながら」  その回答は、無料音楽配信サイト【W・M(ウィズミュ)】にて配信されている楽曲を享受していることを意味する。今や世界中のだれもがその方法で音楽を聴いているのだから、恥ずべきことではないはずだが、資料館にいるとなぜかそれがいけないことのように錯覚してくるから不思議だ。金銭の対価として音楽を手に入れていたころの痕跡が、確かなものとしてここには残っているのだった。  ふと、先を行く館長の遅々とした歩みも気にならなくなっていた。隣で手を引く娘を見やると、彼女の顔にも退屈そうな表情はかけらもみえない。ヴァイオリン、フルート、グロッケンシュピール、ユーフォニウム……表示されている楽器の名称を小声で呟きながら、その奇抜な形状に目を丸くしていた。娘なりの楽しみ方を発見したのかもしれない。あるいは、引いている手を通して私の興味が娘に伝染するのだろうか。  やがて、館長はごちゃごちゃと展示された一角を抜け出して、ライトアップされたステージへと私たちを導いた。ステージには、黒い蝶が羽を折り畳んで横になったような、奇妙な形をした巨大な装置がぽつんと立っている。 「お嬢さん、これはね、ピアノという楽器なんだ。昔はね、こういった楽器を奏でて、人は音楽を楽しんでいたんだよ」  館長が娘に語りかけるようにして説明する。楽器も、やはりCDやレコードと同様、現存するもののほとんどは博物館などでその姿を拝むことができるくらいだ。しかし、基本そういった場所では触れないように立ち入り可能ラインを決めて規制されているが、ここのピアノはそういった考慮がされていなかった。  ポーン  いつの間に近寄っていたのか、娘が白い鍵盤を叩く。思っていたより大きな音が館内にこだまして、驚いたらしい娘の肩がびくりと揺れた。 「ミラ、やめなさい!」  慌てて娘の肩を引き寄せる。どんなに激怒されるかと身構えたが、館長は笑みを崩さなかった。 「お母さん、いいんですよ。このピアノは来館者に触っていただこうと思って設置しているんです。音楽を体験するいい機会になりますから」 「……いいの?」  初めて娘が口を開いた。娘の顔を覗き込むと、興奮に鼻息を荒くし、眠たげだった瞳の奥には爛々とした光が宿っている。 「もちろんですとも」  館長の容認に、娘は私の手をすり抜けピアノの前に立つと、白い鍵盤と黒い鍵盤を好き勝手に叩きはじめた。メロディもハーモニーもあったものでなければ、弾き方の作法すら知らない。娘のピアノの音色は館内の厳粛さをぶち壊した。 「すみません、苦情が入ったら止めさせますので」 「いいえ、お母さん」と館長は首を振る。「お嬢さん、とても良い表情だ」  娘は瞬き一つせず、スポットライトのせいか額にうっすらと汗を浮かべている。口角は上向いて楽しそうに、瞳の中の灯火は何物にも吹き消されることなく、夢中になって鍵盤を叩いている。そんな娘を見ていると、不思議なことに、娘の奏でる不協和音のオンパレードはけっして耳障りなものでないように思えてくるのだった。 「ほんとうは、正しい音のピアノを弾かせてあげられるとよかったのですが……」  館長が顔を曇らせる。 「このピアノは音が狂っているんですか」 「もう何十年も調律されていませんから……調律師という専門技師が昔はいたものですが、もはやそれを職業とする者はいないでしょう」  そもそも、音階という概念が存在するのかも怪しいですね、と館長は苦笑いを浮かべる。今やあらゆる情報を電子化する時代。音楽を楽譜として記録する習慣がなくなっていったと同時に、あらゆる楽器のあらゆる音色を電子パターンとして入力するだけで作曲が可能になった。音楽を享受するわれわれ消費者も完成された電子データの音源に手軽にアクセスできる利便性を好むようになり、いつしか人は演奏をやめた。  人は楽をしたがる生き物だ。しかし、今目の前でピアノに熱中する娘の姿を見ていると、人はどうして演奏をやめてしまったのか、素朴な疑問が湧いてくる。あんなに豊かな表現ができるものを手放すとは、なんだか悲しいことのように思えた。  だれも来なかったことをこれ幸いとして、娘は満足するまでピアノを弾きたおし、最後に館長に来館の感想を尋ねられた際も、頬を上気させ「楽しかった」と息巻いた。  館長はしわの多い顔の目尻のしわをさらに深くして、「また来ておくれ、音楽の未来を担うお嬢さん」と指切りを求めた。娘はこくんと肯いてそれに応じる。館長の、年齢を刻んで皮と骨ばかりになったような手に、娘の小さくふくよかな手が重なった。  資料館を出て、駐車場にぽつんと停まった車影に近づく。娘の手を引いたまま近づくとドアが自動で開き、その音でようやく気づいたらしい旦那が運転席から振り向いた。膝の上で息子を抱いて機嫌をとっていたようだ。 「おかえり。なんだかんだ長居してたね」  そう言ってから、娘の興奮冷めやらぬ表情をまじまじと見つめ、旦那は笑った。 「なにか面白いものでもあった?」 「そうね」  そう答えた私の声も、無意識のうちに弾んでいたかもしれない。しかし、私に被せるように、あのね、ピアノがね……と猛烈に捲し立てはじめた娘の相手に気を取られ、旦那は私の返事になど気づいてなさそうだ。  私は娘のきらきらした瞳を目に焼きつけながら、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、これと決めたら一筋な娘が音楽にどっぷりと浸かっていく将来が見える気がするのだった――娘が音楽とともにゆく道がどうか明るいものでありますように、と胸の中で小さく祈った。
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